ねぎ坊主で忘年会

ねぎ坊主
大阪には大阪府中小企業診断協会とは別に独立診断士で構成された大阪中小企業診断士会があります。いわゆるコンサルティング・ファームです。今年は会員が増えて180名ほどになっています。
この士会の総務サポート委員をしており、月1回、委員会があるのですが本日が最後の委員会。終わってからはメンバーで忘年会です。と言いながら、毎月、委員会が終わったら、飲み会をやっていますので、ふだんと同じ。(笑)
よく行くお店が堺筋本町駅近くにある「ねぎ坊主」。創作料理のお店で変わったものが食べられるのとワインをけっこうバカバカ飲むのにリーズナブルな点が評価されています。あと、ここのエビマヨを絶賛されている方がいるのも行く理由として大きいですね。
オススメは卵を何個使っているんだろうという「巨大だし巻」、すり潰した蓮根に色んな具材を入れて丸めて揚げた「れんこんまんじゅう」、「なす餃子」も捨てがたいですね。あと頼むのに勇気がいる「にんにくオイル煮」(絶対に匂います)です。あと定番はシーザートーストサラダ、明太子スパゲティです。

日本で一番多い神社は何?

All About
マイナンバーの個人番号をどう集めるか、漏えいしないようにどう守るかに関心が集まっていますが、マイナンバーには法人番号があります。
12月から法人番号公表サイトで全国の法人番号、名称、住所が公表されています。NPOも法人ですので、多くの場合、理事長の個人住所が公表されています。
この法人番号公表サイトですがマーケティングに活用できそうです。大阪の地場産業である昆布屋さんを調べようとすると「大阪府」を指定して「昆布」で検索すると29件ヒットします。企業年鑑などを調べなくても、簡単に営業のアプローチ先が住所付きで見つかります。おまけにダウンロードできますから、どう考えてもDMは増えるでしょう。
また差分データをダウンロードすることで新設法人が分かります。税理士が営業するにはありがたいですね。
少し変わった検索もでき、日本で一番多い神社を調べることができます。
その結果は....続きはウェブで(笑)
→ マイナンバー(法人番号公表サイト)で新規顧客開拓

本多忠勝陣跡(関ヶ原)

本多忠勝陣跡
関ヶ原シリーズ。今回は本多忠勝陣跡。
■桑名藩の初代藩主
本多忠勝といえば酒井忠次、榊原康政、井伊直政と並ぶ、いわゆる徳川四天王の一人です。三重県人としては桑名藩・初代藩主として有名で、桑名城跡の九華公園には鹿角の兜をかぶった本多忠勝の像があります。すぐ隣が中食で有名な柿安本店。最後は桑名で亡くなっています。
桶狭間の戦いで徳川家康が丸根砦、鷲津砦に囲まれた大高城に兵糧を入れますが、この時が初陣でした。武田信玄との戦いとなった一言坂の戦いで徳川軍が大敗しますが、本多忠勝は殿(しんがり)を守り、無事に徳川家康を逃がします。武田軍からは「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」とたたえられます。唐の頭というのは家康が愛用していたヤクの毛で作られた兜のことで、本多平八とは忠勝のことです。
蜻蛉(とんぼ)切という名前の槍を愛用し、鹿の角の兜がトレードマークで、「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」という本多忠勝をうたった川柳が伝わっています。関ヶ原では徳川本陣にあって、本多本隊は嫡男の忠政が率いていました。
■真田信繁(幸村)の親戚だった
本多忠勝の娘が上田の真田信之に嫁いでいたため、信之は東軍に味方します。この信之の弟が真田信繁(幸村)で、関ヶ原の戦後処理で真田昌幸・信繁(幸村)親子の助命を真田信之と共に家康に嘆願します。結果的に助命されて九度山に流されます。大河ドラマ「真田丸」にも絶対に、この嘆願シーンが出てくるでしょうねえ。

ITC三重 忘年会

日本海庄屋
三重県内のITコーディネータの集まりがITC三重です。
2ケ月に1回、三重県産業支援センターの会議室で定例会を開催しています。年末ですのでITC&税理士の永井先生に年末調整や確定申告の話をしていただきました。他にマイナンバーが思ったほど盛り上がらなかった話など。
大阪ですと会議と飲み会は基本セットですが、公共交通機関が少なく車社会の三重県ではいつも定例会だけで散会です。さすがに12月だけは忘年会をやろうということで、アスト津地下にある日本海庄屋で忘年会を開催しました。
いやあ、よく飲みました。大阪へ帰ります!

松平忠吉・井伊直政陣跡(関ヶ原)

松平忠吉・井伊直政陣跡
関ヶ原シリーズもいよいよ佳境に入ってきました。(笑)
第8回は松平忠吉と井伊直政陣跡。
■女城主によって井伊直政が誕生
陣跡はJR関ヶ原駅のすぐ近くにあります。松平忠吉は徳川家康の四男で、井伊直政の娘婿。井伊直正はご存じ徳川四天王の一人です。来年の大河ドラマは真田丸ですが、再来年の大河ドラマは井伊直虎で柴咲コウが演じます。井伊家の当主が戦死し、父親も謀略で殺され、後継ぎの虎松(2歳)だけしかいない状況になった時、出家して尼になっていた女性を井伊家の当主に据え中継ぎにします。女城主となり名前を直虎にし井伊家を守ります。虎松を教育し、育て今川家を見限り、徳川家康につきます。この虎松が後の井伊直政となります。
■井伊の赤備え
武田信玄が滅んだ後、家康が武田遺臣を配属したのが井伊直政。武田の赤備えで有名な山県隊も配下となったため、軍装を赤備えにします。これが井伊の赤鬼と怖れられます。大坂の陣では武田二十四将であった真田信繁(幸村)の赤備えと井伊家の赤備えが真田丸で激突します。きっと来年の大河ドラマでこのシーンも出てくるでしょう。
■そして彦根へ
松平忠吉は関ヶ原が初陣。先陣は福島正則が命じられていましたが、井伊直政は松平忠吉を引き連れて福島正則を出しぬき、宇喜多勢に一番槍をつけています。合戦の終盤となると島津の退き口が始まり、徳川軍による追撃がはじまりますが松平忠吉、井伊直政ともに、この追撃で重傷を負います。先陣と追撃の功により井伊直政は高崎城から石田三成の所領だった佐和山城が与えられます。佐和山城ではなく、もう少し街中に新しい城を造りますが、これが「ひこにゃん」で有名な彦根城となります。ちなみに高崎と名付けたのが井伊直政です。

島津義弘陣跡(関ヶ原)

島津
関ヶ原シリーズ第7回は島津義弘陣跡です。
「島津の退き口」 敵前突破という前代未聞の撤退を行った島津義弘の陣跡です。
戦国時代の九州といえば大友、島津、鍋島の三国志状態でしたが島津義弘は兄の島津義久とともに九州中を席巻。ところが秀吉の九州征伐で敗退してしまいます。負けたあとは秀吉に従い、文禄の役や慶長の役にも参加し、泗川の戦いでは明・朝鮮の大軍を寡兵で破り、武名をあげました。島津義弘は親豊臣派ですが、兄・義久は反豊臣派。家臣団も分裂していて義弘に本国の島津軍を動かす決定権がありませんでした。やむなく300の兵で関ヶ原に参加せざるをえません。
■関ヶ原の戦い
もともと義弘は家康側につく予定でしたが、亀寿という女性が豊臣方への人質として伏見におり、養父が義久という関係から亀寿の命を第一に考えて西軍につかざるをえなくなります。ただ出陣した限りは戦うつもりでした。島津軍は西軍の作戦上、二番手でしたが一番手が負けた時には全体の勝敗も決まっていて、なんともしようがなかったようです。
■島津の退き口
そこで島津の退き口となりますが、敵味方を識別するようなものは捨てて、乱戦のなかで撤退し壮絶な戦いとなりました。殿(しんがり)をつとめたのが甥の島津豊久で、戦死してしまいます。
島津義久は伊勢街道を抜け、伊勢の国を鈴鹿山脈沿いに逃げますが、この時、水口岡山城主で同じ西軍だった長束正家が道案内を派遣しています。信楽からなんとか大坂へたどりつき、人質を救出して船で九州へ向かいますが、ここで黒田官兵衛の水軍と海戦になってしまい、まさに踏んだり蹴ったり。現在の日向市にようやたどり着き、陸路を佐土原城へ、ここは関ヶ原に戦死した島津豊久が城主でした。ここから山間の道に入り薩摩にたどり着きます。
■後日談
この「島津の退き口」から50年ほど経った頃、薩摩の若者が長い距離を歩いて、島津の退き口を生き延びた武将・中馬大蔵のもとへ話を聞きに行きます。居住まいをただした武将は若者たちを前に「関ヶ原ともうすは・・・」と言ったきり、涙を流し続けて絶句した逸話が残っています。

中小企業診断士試験 口述試験対策

LEC
11日(金)に中小企業診断士・2次筆記試験の合否結果が発表され、次は20日(日)に行われる口述試験です。
今日から口述試験対策が始まり、久しぶりにLEC梅田へ行ってきました。口述試験は基本的に通す試験ですので、それほど対策する必要はないのですが、皆さん、よく与件文を読み込んでいて対策もバッチリでした。
私が口述試験を受けたのは新制度になった第一回目で、何の情報もなかった時代。診断士の先輩諸氏に「どんな試験なんですかねえ?」、と聞いたら「そんなん雑談で終わってしまうよ」というありがたいアドバイス。
アドバイスを信じて口述試験にのぞみ、えらい目にあいました。

誰も教えてくれなかった中小企業のメール活用術

誰も教えてくれなかった中小企業のメール活用術
12月18日(金)に発売される本の宣伝です。今日から予約開始になりました。
皆さんは学生時代、ビジネスメールの書き方について学習しましたか?
大学や専門学校で情報処理の非常勤講師を長くやっていましたが、ほとんどの学校ではマイクロソフトのマウス検定対策などが中心で、ビジネスメールに関する講座をやっていません。署名の設定などテクニカルな話題を少しやる程度です。
卒業し会社に入っても名刺の渡し方や電話の取り方についての研修はありますが、ビジネスメールの研修はありません。今やお客さんからのファーストコンタクトがメールになりつつあります。研修を受けていませんので我流のメールを送ることになりますが、これがトラブルになっています。
というわけでメール本です!
電子書籍版なんですがオンデマンドで印刷書籍版もあります。(ちょっと高くなります)
■「誰も教えてくれなかった中小企業のメール活用術」
水谷 哲也
電子書籍版 800円(税別)/印刷書籍版 1200円(税別)
ISBN:978-4-8020-9054-4
発行:インプレスR&D
▼本日から予約受付になりました。
誰も教えてくれなかった中小企業のメール活用術

小西行長陣跡(関ヶ原)

小西行長陣跡
しばらく途切れていた関ヶ原シリーズです。お待たせしました!
そんなシリーズ誰も待っていないって。(笑)
まあ、そうおっしゃらずに、第六回は小西行長陣跡です。
小西行長はもともと堺の薬種商人出身で家は朝鮮人参などの輸入にも携わっていました。やがて岡山の商人の家に養子に入ったことから宇喜多直家の元を訪れるようになり、ヘッドハンティングを受け家臣となります。秀吉の毛利攻めの際、宇喜多直家が秀吉側につくことを決めた時、秀吉との交渉にあたったのが小西行長。才能を見込んだ秀吉は小西行長を家臣にし、やがて大名にまで上りつめます。最終的には秀吉軍のロジスティックスと水軍の長にもなりました。小西家は貿易の利もあり一家でキリシタンになっており小西行長もキリシタンでした。
秀吉との関係がおかしくなるのはバテレン追放令が出たあたりからで、追放された高山右近を自身の領地だった小豆島に匿います。領地を失っても信仰を捨てない高山右近に感銘をうけたようです。文禄の役では先鋒をつとめ、石田三成と共に明との講和交渉を行っていますが秀吉に内緒で交渉したため、秀吉の逆鱗に触れることとなります。貿易もしていた小西家ですので外交に関して秀吉とはだいぶ感覚が違っていたようです。秀吉から心が離れ、秀吉が死んだ頃には領土(熊本の南の宇土)があった九州全土の支配を考えていました。ここらへんは黒田官兵衛と同じですね。
関ヶ原の合戦が起きた時、九州を領有する絶好の機会と考え三成に味方します。小西行長の陣は宇喜多秀家の陣の隣でした。秀家は最初に家臣に取り立ててもらった宇喜多直家の息子ですので感慨深いものがあったのでしょうね。
小西行長の陣跡のすぐ近くに関ヶ原の開戦の碑が建っていますが、実際に開戦があったのはもう少し南の宇喜多秀家陣で、ここで東軍の福島正則軍とぶつかり関ヶ原の合戦がはじまりました。

佐土原城跡

佐土原城跡
せっかく宮崎まで来たのでゆっくりするつもりが、お昼に大阪へ戻る用事ができたため、スケジュールを組み直し、朝早く宮崎バスで佐土原へ。
バスには通学する高校生も乗っているんですが、高校に着くと運転手が「寝ている生徒がいたら起こしてあげてください」とのアナウンス。けっこう郊外なので乗り過ごすとえらいことになるからでしょうえ。しばらく走ると交流センターというバス停があり、バス亭のすぐ近くに佐土原城跡があります。
佐土原城の麓には二の丸御殿の一部が復元されていますが、歴史資料館も含めて朝早くなんで当然、空いていません。まあ目的は山城なので御殿脇から山の中へ。道がきれいに整備されていますので、スーツ姿で登れる山城です。犬の散歩をしている地元の人もおりました。
主郭はめちゃくちゃ広く、天守閣もあったようです。南の城は虎口がなかなかすごく、堀切もしっかり残っていました。
佐土原城は昨日、行った宮崎城と同様、伊東氏の城の一つでしたが、島津が九州を席巻した時には島津義久の実弟である島津家久が城主として入っていました。関ヶ原の頃には島津豊久が城主。関ヶ原に島津義久と共に出陣し、島津の退き口で亡くなった武将です。
関ヶ原から無事に日向までたどりついた島津義弘は佐土原城に入ってから鹿児島に向かいました。