信長も陣をはった遠里小野環濠

遠里小野
本日も大阪市内で仕事でしたので、近くの遠里小野へ。
大阪の難読地名でよく出てくる土地です、もちろん”おんりおの”ではありません。遠里小野は少し微高地になっていて戦国時代や江戸時代は環濠集落でした。周りを掘で囲まれているので防御力が高く、しかも熊野街道が集落を通っており、交通の要衝ということで、よく陣がおかれました。
織田信長も遠里小野環濠に陣をはったことが信長公記に出てきます。さすがに環濠は埋められて道路になってしまいましたが、微妙に高さが違っていることが分かります。環濠集落の古地図を見ると、当時の道路が今もそのまま使われていることが分かります。細かい路地も中世の時代そのままの位置にあり、なかなか感激します。

能「弱法師」の舞台 俊徳塚

俊徳塚
今日は大阪で仕事でしたので、ついでに能「弱法師」の故郷である俊徳塚へ行ってきました。
近鉄大阪線に俊徳道駅があります。駅の南側を通る俊徳道から名前をとっていますが、俊徳道は俊徳丸からきています。
■能「弱法師」
俊徳丸は、人のザンゲンを信じた父により家から追放され、盲目となってしまい、乞食坊主として四天王寺で物乞いをすることになります。後に後悔した父親と四天王寺で再開することになります。能なので、そのあといろいろあります。
■俊徳塚
もともとは河内国高安の山畑にいた長者が長年子供がいなかったが、清水観音に願をかけることでもうけた子供の名前が俊徳丸でした。ですので現在の八尾市山畑に俊徳塚があります。最寄駅は近鉄 服部川駅になります。住宅地の真中に横穴式の石室墳墓がデーンとありました。

権現塚

権現塚
大坂冬の陣で家康は茶臼山に陣をかまえますが、京都から大坂へ向かう時に通ったのが生駒山山麓の東高野街道。
家のすぐ近くを東高野街道が通っていますが、隣の豊浦町に権現塚があり、このあたりに中村正教(まさのり)の邸宅がありました。家康は冬の陣、夏の陣ともに中村家に泊ります。中村家は佐々木源氏の流れなので、氏の長者である家康に従ったのでしょう。宿泊した時に正教が菖蒲の節句にちなんで木綿を献上したところ、家康は「勝布」と言い、大いに喜んだという逸話が残っています。東高野街道から少し登ったところに中村家はありましたので、当時は大坂城までよく見通せたでしょう。
家康は東照大権現になりましたので、その関係で権現塚が作られました。もう少し登って、近鉄奈良線が通っているホテルセイリュウあたりだと大坂平野が一望できますので、当時の民衆はこのあたりから大坂の陣を見物していたでしょうね。

自分のことは占えない

石切参道
近くに石切神社という物部の古い神さんがあり、散歩がてら、よく石切参道商店街をブラブラしています。ここは占い関係のお店が多く、一度、店を数えてみましたが30軒以上はあり、中にはアパートのような占い横丁まであって正確な数はよう分かりません。
そんななか派手な傘が置いてあったのが陰陽道占いのお店。廃業したのか移転したのか店は閉まっており看板だけでした。占い激戦地区ですので、店の出入りも多いです。初期投資が机と椅子だけと安いことも特徴です。当然、占いなので商売がうまくいくかどうかを占ってもらえますが、こと自分のこととなると占えないもんですね。
これはコンサルタントも同じです。人の会社のことは言えますが、いざ自分のこととなると客観的に自分のビジネスを見られないこともあり、自分で自分のコンサルはできません。自分自身がコンサルタント業なのに外部のコンサルに自分のコンサルを頼むことは、ままあることです。商売とは難しいものですねえ。

九度山

真田昌幸
大河ドラマ「真田丸」いよいよ大坂冬の陣ですねえ。
真田昌幸、真田信繁が追放された場所が高野山の麓である九度山。先日、中小企業診断士仲間と九度山へ行ってきました。
高野山は当時女人禁制で、空海の母親でも入れません。そこで母親は麓にある慈尊院に滞在し、空海が高野山から1ケ月に9回も通ったことから九度山という地名がついたといわれています。
真田一行には女性もいますから、女人禁制の高野山には入れません。徳川の許可をとって九度山に落ち着くことになります。九度山は3方を紀ノ川、壬生川、小さな川に囲まれており、外へ出るのは1方向で島に近いような立地でした。これなら幽閉先としては最適ですね。
壬生川の上にある丘に真田庵があり、ここが真田屋敷跡。九度山で亡くなった真田昌幸のお墓もあります。大勢の人が手をあわしていました。

リーディング産業展

四日市ドーム
■いちもくさん
昨夜は大阪府中小企業診断協会・交流会「いちもくさん」の例会。発表は燃料電池についてお話しいただきました。
例会が終わってからは毎度おなじみ中華「香」に移動して懇親会。食べ放題、飲み放題3,080円のお店なんで昨夜も一杯でした。そうそうに忘年会も予約してきましたが、よく考えたら翌日に人間ドッグの予約をしたんで、私は参加できない。(泣)
■リーディング産業展へ
朝、眠い目をこすりながら四日市へ移動。今日と明日は四日市ドームでリーディング産業展が開催されています。四日市ドーム入口にデーンと水素ステーションが置かれていました。トラックに積み込んでいますので移動できるようになっていて三重県内には2ケ所設置されるそうです。燃料電池車に水素を提供するのですが、価格は2億円だそうです。
昨日の発表で本町に設置された水素ステーション(ガソリンスタンドのようなもの)が5億円だそうですので、それよりは安いのですが高いですね。電気自動車、燃料電池車のどちらが本命になるのか難しいところですね。

纏向遺跡

纏向遺跡
三輪山登拝のあと、近くにある纏向遺跡を見てきました。纏向遺跡は広大な遺跡で運河が2本あり、全国から土器が持ち込まれています。土器で多いのは東海、出雲、吉備、河内地域で各地の首長が集まり会議や祈りをしていたような都市でした。農地などは見つかっておらず、今でいう霞が関みたいなところだったようです。箸墓などは通天閣のようなランドマークになっていました。
地上には何もないのですがJR巻向駅の近くで発見されたのが辻地区の建物群です。国内最大の建物跡が発見され、しかも4棟が中心軸をそろえて東西一直線に整然と並んでいました。2009年には”卑弥呼の宮殿を発見か”と大きく報道された場所で、今は埋め戻されて原っぱになっています。ここが邪馬台国かどうかは分かりませんが、初代大和政権である崇神天皇の磯城瑞籬宮、垂仁天皇の纏向珠城宮、景行天皇の纏向日代宮だった可能性が高いですね。
「うまし うるわし 奈良」へ、ぜひどうぞ!

夜討ちの大将・塙団右衛門

真田
大河ドラマ・真田丸を見ていると塙団右衛門が2回ほど自分の名前を書いた木札を渡すシーンが出てきます。名刺みたいなものですね。
こりゃ”本町橋の戦い”が次回の真田丸あたりに登場しそうですね。大阪府よろず支援拠点が入っているマイドーム大阪のすぐ横が横堀川が流れています。川の上を高速道路が通っていますが、この川が名前の通り、秀吉が造らせた総構の堀跡。近くに本町橋があり、ここも大坂冬の陣の舞台となりました。今は多くのビジネスパーソンが通っています。
マイドーム大阪や大阪商工会議所あたりに布陣していた塙団右衛門は堀の向こう側の徳川勢・蜂須賀至鎮の陣に夜襲をかけます。塙団右衛門は本町橋の上に床几を置いて夜討ちを指令し、「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」と書いた木札をばら撒かせました。
なかなかのパフォーマンスで、塙団右衛門は後世、講談などで取り上げられるようになり、こうして大河ドラマ・真田丸にも登場するわけです。

三重県トラック協会でITセミナー

三重県トラック協会
三重県トラック協会でITセミナーを行ってきました。
内容はWヘッダーになっていて第一部はマイナンバー。ある程度の規模の企業は対策済みですが、ほったらかしにしている企業も多く、いよいよ法定調書への記載が必要ですので、この年末調整には集めないといけません。マイナンバーの扱い方と意外と知らない法人番号公開サイトの活用方法を説明してきました。
第二部はセキュリティの話。大企業、小規模企業関係なしに攻撃が行われますので、対策などを含めて説明。食いつきがよかったのがパスワード設定などをしていないウェブカメラの画像。店舗内で談笑している様子などを実際に見てもらうとインパクトがありますね。IoTが流行っていますが、けっこう怖く、この10月22日には乗っ取られたウェブカメラなどから攻撃が行われ、ツイッターやアマゾンなどの大手ネットサービスが世界的に5時間に渡って接続しにくくなった事件が発生したばかりです。

谷城(若桜神社)

谷城
桜井の駅を降りて、まっすぐ南に10分ほど歩くと若桜神社が小高い丘にあります。もともとは古墳だったようです。
境内には桜井市の地名のいわれになった「櫻の井」が復元されていました。若桜神社を履中天皇の磐余稚桜宮跡にあてる説があり、境内の案内板にもそう書かれていますが、もっと南へ行った稚櫻神社あたりで磐余池の堤跡が2011年に発見され、稚櫻神社あたりが磐余稚桜宮だったようです。履中天皇以降、歴代の天皇が磐余池近辺に宮を造り、謀反の罪で処刑された大津皇子が辞世の歌でこの磐余池を歌っています。
桜井の駅に近い若桜神社ですが階段を上がった小高い丘に社殿があります。奥の西側と南側に崩れかけてはいましたが、堀跡と土塁が見事に残っていました。
階段のある東側は帯曲輪状態になっています。字名が谷なので谷城と呼ばれています。伊賀や甲賀に多い方形単郭の城だったようです。北側も痕跡が残っていそうですが藪の中であきらめました。