楠木七城の一つ 金胎寺城

金胎寺城
金胎寺城は河内長野にある楠木七城の一つです。昔、山の麓に金胎寺がありました。
楠木七城というのは楠木正成が鎌倉幕府へ抵抗するために築城した城砦群のことで千早城・下赤坂城・小根田城(上赤坂城の一部)・桐山城(上赤坂城の一部)・烏帽子形城・龍泉寺城(嶽山城)・金胎寺城の七つの城からなっています。石碑しか残っていない下赤坂城以外の六城には全部、登りました。(笑)
金胎寺城は楠木の城でしたが、室町時代は近くの嶽山城ともども河内守護となった畠山基国の城となり、南朝側の楠木を攻める拠点になります。畠山基国の孫が畠山持国です。持国の実子である義就と甥で持国の養子だった政長の間で家督争いが発生。畠山義就は嶽山城、金胎寺などにこもって畠山政長と戦います。これが将軍家や細川家の家督争いとからんで応仁の乱へと続いていきます。
■登山道が整備された金胎寺城
金胎寺城は、よく歴史書に出てくる城なんですが、今までは藪だらけで整備されておらず、たどりつくのが大変でした。2015年に地元の方が木を伐採、道を整備し、城まで登山道が作られました。道には頂上まであと何分という案内があり、迷うことはありません。えっちらおっちら登ると主郭からは360度、見渡すことができます。
遠くは明石海峡や六甲の山、近くにはハルカスやPLタワーなどが見えます。烏帽子形城や嶽山城もよく見え、連携して動いていたことがよく分かります。他の郭跡や堀切もしっかり残っています。スーツ姿では登れません。

合同会社を作ろう 特別徴収義務者

特別徴収について問い合わせをしていたら東大阪市から返事がありました。
特別徴収とは事業主が従業員に代わって住民税を納める制度で事業主を特別徴収義務者といいます。大阪府では平成30年度からすべての事業主を特別徴収義務者に指定し、個人の住民税の特別徴収を徹底する取り組みを進めているんだそうです。
というころで代表者一人の会社であっても法人を設立した場合は「特別徴収への切替申請書」の提出が必要になります。
特別徴収は毎月の給与から住民税(市民税、府民税)を差し引き、翌月10日までに納めてる形で、年12回となります。ただし小規模企業の場合は納期の特例を申請することで納期限を年2回に変更することが可能です。
一人会社の場合は、6月分の役員報酬から一年分の住民税を差し引いて、6~5月分の12カ月分の納入書を使用し、金融機関で一年分の住民税を7月10日までにまとめて納めることもできるそうです。

合同会社を作ろう 番外編


■自分に給与を払う
今日は25日、給料日です。合同会社にしましたので役員報酬を自分で自分に払う日です。もっとも”売上も上がってないのに何で給与を払わないといけないんだ”という経営者の悲哀を味わえます。(笑)このままだと資本金を食いつぶしていくだけなので、がんばろうっと!
個人事業では売上から経費を引いたものが報酬になりますが、法人は役員報酬となり、毎月、同じ月給でないと損金算入が認められませんので期の途中で月給の額は変更できません。
また役員報酬からは健康保険、厚生年金の社会保険料の半分を本人負担分として差し引かないといけません。もっとも会社負担の半分も自分で出すのですが。(笑)雇用保険料は役員の場合は関係ありませんが、所得税は源泉しなければなりません。預かり金で仕訳します。
住民税(市民税・府民税)に関しては、本を読んでたら毎月、納付するのが面倒な場合は、納期の特例承認申請書を市役所に提出すると年2回(7月と1月)でよいとありました。そんな申請書を出さないといけないんだと東大阪市に問い合わせると、まず普通徴収から特別徴収へ切り替える必要があるそうです。特別徴収ってなんでっかいなあ?
■特別徴収って何
普通徴収-自分で住民税をおさめること 年4回(6月、8月、10月、1月)
特別徴収-事業者が給与から差し引いて税金を納めること 毎月(特例で年2回)
なんだそうです。
いろいろと調べると、会社(給与支払者)は、従業員の給与から住民税を差し引く「特別徴収義務者」に原則なるそうです。税理士さんに聞いたら一人会社だったら年末調整の時に普通徴収でいきますと出せばOKとのこと。なんだ~あ!

浦島太郎は建国に関わっていた?

太鼓橋
「かぐや姫」とくれば次は浦島太郎です。浦島太郎というおとぎ話はメチャクチャ古くからあります。
まず正史である「日本書紀」に出てきます。丹波国の浦嶋子(浦島太郎)が釣りに出かけ大亀をつかまえました。この大亀が実は女性で、浦嶋子の奥さんとなり、二人で海中に入って蓬莱山へ行き、仙人たちに会ってきたという話です。日本書紀には別巻があったと最後に書かれていますが残念ながら伝わっていません。別巻を作るぐらい、浦島太郎を重要視していたようです。
日本書紀の成立は養老4年(720年)ですが、それ以前から流布していたのは確実です。蘇我氏が滅んだ時に天皇記、国記が焼けてしまいましたが、おそらく浦島太郎の話が書かれていたのでしょう。
■浦島太郎って誰?
浦島太郎とよく似た人物が神武東征で出てきます。神武天皇が大和へ向かう時に、珍彦(うずひこ)という人物が水先案内人をしますが、これが亀に乗って釣竿を持った人物。
万葉集では浦島太郎の舞台が住吉になっています。住吉神社に祀られている住吉大神は塩土老翁で、モデルが武内宿禰といわれ300歳以上の長命です。この塩土老翁は神武に東征をうながした神さまです。
武内宿禰は昔の紙幣の肖像にも使われていましたが塩土老翁と同じように応神天皇の東征を助け、葛城氏・蘇我氏など豪族の祖となりました。この武内宿禰が浦島太郎ではという説があります。乙巳の変でクーデターを起こした藤原氏にとって、クーデターを正当化できないような、まずいことが書かれていた天皇記、国記を、これ幸いと焼いてしまったという説もあります。
住吉神社といえば太鼓橋が有名ですが、昔はすぐ近くが海岸で、太鼓橋下の池は当時の入り江(ラグーン)の名残と言われています。

かぐや姫の石上麻呂と山城

高安城
かぐや姫の続きです。(笑)
■石上麻呂が監督した山城は?
かぐや姫に出てくる5人の公達の一人が石上麻呂。石上なので、もちろん物部氏です。
石上麻呂は壬申の乱では大友皇子側で、皇子の自殺まで従いました。有能な人物だったようで、のちに赦されて右大臣、左大臣に任じられ、遣新羅大使や筑紫総領も歴任しています。榎本武揚のような存在ですね。日本書紀に石上麻呂が筑紫に派遣され、新しくできた城を監督させたという記録が残っていて、この新しい城について諸説あります。1999年に大宰府周辺で阿志岐城が発見されましたので、まだ見つかっていない山城かもしれません。
■百済遺民が日本各地へ
当時、日本を取り巻く状況が最悪でした。天智天皇が滅ぼされた百済の遺民と組んで唐・新羅連合と戦いますが、白村江の戦いで大敗し、日本は存亡の危機を迎えます。実際、唐は日本への侵攻計画をたてていました。この時に水城、大野城、金田城などが整備され、最後の砦となる大和の守りに作られたのが高安城(1979年に高安城を探る会によって発見)です。天武朝になっても周辺国との緊張が続きましたが、唐と新羅が戦うようになり危機を脱します。
日本へは、新羅に滅ぼされた百済遺民が大挙して移り住みます。昨今の朝鮮情勢で日本へたくさんの難民が来るのではと言われていますが、歴史的に見ると百済滅亡、南宋滅亡など何回もありました。
百済遺民は数も多く、九州などでは6割以上が百済系という事態となり、朝廷では計画的に全国へ遺民を移します。東京都の狛江市や京都精華町の下狛のような土地名が当時の名残です。枚方市には百済寺が大阪には百済貨物ターミナル駅もあります。西武池袋線には高麗駅という名前が残っています。

かぐや姫は藤原氏告発の書!?

かぐや姫
以前、道鏡に由来する由義宮の話題で『藤原氏との権力争いなどから、”かぐや姫”の物語が生まれた』と書いていたら、『なんで、かぐや姫が関係あるの?』という質問がありました。
かぐや姫といえば竹取物語です。あまり知られていませんが一説には藤原氏告発の書と言われています。竹から生まれ美人に育った、かぐや姫に5人の公達が求婚します。5人の公達は、石作皇子、車持皇子、阿倍御主人、大伴御行、石上麻呂で、阿倍御主人、大伴御行、石上麻呂は実在の人物で、壬申の乱や天武・持統朝に活躍した人物です。石作皇子は多治比島ではないかという説もありますが、歴史に埋もれてしまった実在の人物かもしれません。
■車持皇子は藤原不比等のこと?
車持皇子は藤原不比等と言われており、車持は母方の名前です。かぐや姫から「蓬莱の玉の枝」を持ってくるように言われますが、海に出ず、職人に命じて偽装します。ところが職人に賃金を払わなかったことから偽装がばれます。竹取物語では車持皇子が最も卑劣な人物として描かれています。表だって藤原氏を批判するわけにはいかないので、他の4人は実名なのに車持皇子だけ仮名にしたのではと言われています。
月から、かぐや姫を迎えにきますが、その時の台詞が「さあ、かぐや姫。穢れた所(地上)から戻りましょう」で、”(藤原の)穢れた所”という意味と言われています。浦島太郎など日本の昔話は、いろいろと奥深いですねえ。

プラスITフェア

プラスITフェア
IT導入補助金の募集がはじまっていますが、全国の経済産業局単位のブロックでプラスITフェアが開催されています。
本日は、中部ブロックのプラスITフェアで、ウィンクあいち6階で開催されています。三重県よろず支援拠点もブースを出しており愛知県よろず支援拠点の隣りです。
事前参加申込が700社を超えていると事務局から発表がありましたが、夕方になっても、すごい来場者数ですね。
主催者によると既に開催した所と比べても中部の集客はすごいそうです。入口近くにあるIPAのブースでは用意したパンフレットが昼過ぎになくなったようです。おかげで”よろず支援拠点”への相談も多いです。

嶽山城 応仁の乱の舞台

嶽山城
「応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱」(中公文庫)が28万部を超え、固い歴史書では珍しくベストセラーになっています。いいな~あ、ウチのバグ本も売れないかなあ(笑)。
京都からの視点ではなく、興福寺の僧である経覚と尋尊が奈良を中心に応仁の乱について日記を記載しており、”奈良から見た応仁の乱”になっており、なかなか面白い内容です。
■嶽山城
さて応仁の乱というと京都が戦場というイメージがありますが、そんなことはなく河内も大和も皆、戦場になりました。河内で戦場になったのは若江城、高屋城、そして嶽山城です。
富田林にある嶽山城では”嶽山城の戦い”が行われ、室町幕府から反逆者として追われた畠山義就が嶽山城に籠城し2年以上も幕府軍と戦いました。畠山義就は負けて嶽山城は落城するのですが、畠山義就は紀伊や吉野に逃れ、やがて上洛して畠山政長の追い落しをはかり、これが応仁の乱へとつながっていきます。
嶽山城はもともと楠木正成が作った楠木七城の一つといわれています。現在、城の跡地は「かんぽの宿富田林」となり、城跡などは残っていません。テニスコートの奥の方に碑が建っていて、碑の先に広い平坦地がありました。郭の跡のようですね。

BLAST2002研究会

BLAST2002
昨日は大阪産業創造館でBLAST2002研究会。
2002年に中小企業診断士の実務補習を受けた連中が中心となって始めた研究会ですが、どんどん仲間が増えています。参加資格は新制度での合格者というだけで入会費も会費も何もないゆるい研究会です。昨日も30人以上が参加していました。
研究会が発足して30年も経ったんですね。次回、9月17日(日)は記念すべき50回目になりますが、年3回の開催なんで100回目開催は17年ほど先の話。「その頃には生きていないだろうな~あ」と、しみじみと言っているメンバーがおりました。
セミナー終了後は「世界の山ちゃん 本町店」で宴会。大阪まで進出しているんですね。久しぶりに世界の山ちゃんの手羽先を食べました。

あなたの知らないコッキンの世界

永井俊二
昨夜は大阪産業創造館で知的生産の技術研究会・関西のセミナー
「あなたの知らないコッキンの世界」というテーマで、大永コンサルティング代表の永井さんにお話しいただきました。独立前は大阪創業支援センター所長を長らく勤めておられました。
■創業融資
2008年に国民生活金融公庫、中小企業金融公庫、農林漁業金融公庫が合併して誕生した100%政府出資の金融機関が日本政策金融公庫です。教育ローンや事業者向け創業融資でお世話になりますが一番の特徴は創業者向けにビジネスプランで新規開業資金の融資を行っています。もともとは従業員独立支援資金だったんですね。
創業者との約1時間との面接で、どういうところを審査しているのかポイントなどをお話しいただきました。特に創業融資で300万円まではダメになってもサラリーマンに戻って返済できる額なので、「まずはやってみなさい」という姿勢で融資を応援する傾向にあるそうです。創業融資は全国で26,000件ほどあり、大阪では2,000件ほどあるそうです。