日経新聞・関西版の夕刊に載っていたのが由義宮の話題。
東弓削遺跡で、奈良時代後半に作られたとみられる大量の瓦が見つかり、これが由義宮跡ではないかという記事でした。場所はJR大和路線 志紀駅の近くで、遺跡は外環状線沿いにあります。ずっと昔、八尾空港に降りようとしたセスナが墜落したのも、このあたりです。
八尾の高安に1年ほど住んでいましたが、まず行ったのが八尾にある物部系神社巡り(笑)。東大阪の石切神社を筆頭に河内にはそこかしこに物部系神社があります。もちろん志紀駅近くの弓削神社にも行ってきました。
弓削と聞いて条件反射で出てくるのが弓削道鏡です。称徳天皇のそばで権力を握った僧として日本史では有名な人物で、和気清麻呂による宇佐神宮神託事件に発展します。弓削氏は志紀駅周辺を根拠地とした物部氏の一族で、物部守屋は弓削大連と名乗っていました。ここにあったのが由義宮で、称徳天皇の離宮があり寵愛していた道鏡のために建てました。日経新聞によれば道鏡はまじめなお坊さんだったようで、結局は藤原氏との権力争いに巻き込まれ、称徳天皇亡き後、左遷されてしまいます。
こんなことで「かぐや姫」の物語が生まれるんですなあ。
月: 2017年4月
田城城跡
近鉄志摩線の加茂駅からちょっと行ったところにあるのが田城城跡。
九鬼岩倉神社前という交差点のすぐ近くにこんもりとした丘があり、ここが城跡です。城跡は加茂川に河内川が合流する地点の南の丘陵にあり、急峻な崖になっています。主郭跡には九鬼岩倉神社があって、祭神は九鬼澄隆です。
織田信長と石山本願寺が戦った第一次木津川口の合戦では毛利水軍&村上水軍に敗れます。信長の命で九鬼嘉隆が6隻の鉄甲船を伊勢で作り、第二次木津川口の戦いで毛利水軍に勝って制海権を握ります。
この九鬼嘉隆の祖父が九鬼泰隆で、田城城で北畠氏に従い二見七郷と加茂五郷を支配していました。九鬼嘉隆の兄である九鬼浄隆が家督を継いだ頃は北畠や志摩七党と敵対していました。九鬼嘉隆は滝川一益を介して織田信長に接近し、北畠攻めにも参加、志摩七党も破り、田城城を取り戻します。
その後、いろいろと一族の争いがあったようで九鬼嘉隆が兄の子である九鬼澄隆を暗殺し、その後、この城は廃城となりました。九鬼嘉隆は鳥羽城を居城にします。九鬼嘉隆の子である九鬼守隆が重病になった時に澄隆に関するうわごとを言ったため、九鬼澄隆を祀る神社が城跡にできました。
明日香城塞群(10) 五条野城
明日香城塞群シリーズの最後は五条野城です。
岡寺駅から少し行った丸山古墳の近くに五条野町という土地があり、ここの丘陵の先端に城跡があります。城跡からは岡寺駅へ向かう155号線が見下ろせます。現在は八咫烏神社になっていて境内が主郭跡で今も屈曲した土塁や堀跡が残っています。
守護がいなかった大和は興福寺が守護代わりで、興福寺と一体化していた春日神社の神人に組み入れられていたのが国民(くにたみ)です。有名なところでは筒井氏、越智氏、十市氏、古市氏などがいますが、興福寺一乗院門跡坊人に五条野氏がいました。土地の名前からいって、この五条野氏の城跡のようです。国民はあっちについたり、こっちについたりという歴史ですが、室町後期には越智氏の「段銭帳」に名前の記載があり、越智氏の支配下にあったようです。
この五条野という土地ですが甘樫丘からつながる丘陵地域です。五条野内垣内遺跡などで建物跡などが見つかっており古代は蘇我氏の支配地域でしたが滅んでからは天皇家に関係する大型建物が造られた土地のようです。今は住宅街になっています。
花見
明日香城塞群(9) 平田遺構
明日香城塞群(8) 野口吹山城
明日香城塞群(7) 野口植山城
明日香城塞群(6) 祝戸城
石舞台古墳から川を渡って南西に向かうと祝戸という土地になり、さらに奥へ行くと飛鳥稲淵宮殿跡があります。石舞台古墳は観光客で一杯ですが、祝戸は飛鳥の中心域からはずれていますので観光客もほとんどいません。
飛鳥稲淵宮殿跡の後ろが山になっていて、山の上に祝戸城があります。山は展望台(国営飛鳥歴史公園)として整備されていて麓から山上まで階段がひたすら続いています。山のピークの中心部まで階段が続いて東展望台と西展望台があります。階段から西展望台に向かう途中に祝戸城がありますが、小さな城ですので、しっかり縄張図を見て城の全体像を記憶していないと気がつきません。私も通り過ぎてから、”待てよ、さっきのは郭みたいだったな”と来た道を戻り、郭に登って気がつきました。祝戸城は2つの郭から構成され、小規模な堀切が2ケ所ありました。公園化でだいぶ改変されたようです。
飛鳥稲淵宮殿跡は発掘調査によると飛鳥の宮殿跡のようですが詳しいことは分かっていません。同様に祝戸城についても詳しいことはわかっていません。