近鉄・新石切駅から少し北に行くと日下(くさか)という土地があります。神武天皇の時代は生駒山の麓まで海でした。
日下は草香、孔舎衙とも書き、日本書紀、古事記に出てくる神武東征で孔舎衛坂の戦いが行われたところです。大和をおさめていた長髓彦(ながすねひこ)に敗れ、神武天皇の兄が矢傷を負います。神武天皇は”日神の子であるのに、東(太陽)に向かって進んだのがダメなんだ”という”最初からそんなことぐらい分かるだろう”というツッコミどころ満載の理由で紀州を迂回し、熊野から大和へ攻め入ります。
■孔舎衛坂は暗峠?
神武東征は日下の出来事と思っていたんですが、「蘇我氏と馬飼集団の謎」という本を読むと、隣の豊浦町が孔舎衛坂の戦いの舞台になっていてビックり!長髓彦の攻撃をやりすごすために大きな樹に隠れてやりすごした人がいて、恩、母のごとしと樹に感謝したことから、その地を母木邑(おものきむら)と名づけました。この母木邑が豊浦町だそうです。
大阪から奈良へ攻め入るなら暗峠を進のが基本です。大坂の陣でも後藤又兵衛らが暗峠を越えて、大和郡山城を占領しに行っています。暗峠に行く途中が豊浦なので、孔舎衛坂の戦いとは暗峠の攻防戦だったかもしれません。
継体天皇の時代に任那復興で派遣された近江毛野臣の従者に河内母樹馬飼首御狩という人物がいて母木邑の母樹が名前に入っています。枚岡神主の水走氏旧記によると、母木は豊浦になっていますので、河内母樹馬飼首御狩の本拠地は豊浦周辺のようです。大坂夏の陣で徳川家康が本陣を置いた中村屋敷跡も豊浦にありますので、今は住宅街ですが昔は館を作りやすい土地だったのでしょう。
神武天皇の東征か、もしくは神話のモデルとなった戦いはウチの近所で行われた可能性大なんですねえ。