聖徳太子のお墓がある叡福寺から少し行った住宅街に石塔が建っています。これが地元では蘇我馬子墓と伝わっています。最近のGoogleマップはすごいですね。きちんと表示されます。
定説では石舞台古墳が蘇我馬子の墓ではないかと言われています。この石舞台古墳のすぐ近くにある都塚古墳が近年、階段ピラミッドの墓だったと分かり、これが蘇我稲目の墓ではと言われています。蘇我稲目は馬子の父親で仏教伝来の時に大連の物部尾輿と争った人物です。仏教公伝、日本史で覚えましたねえ。蘇我氏の墓は本来、飛鳥にありますので、なんで太子町に蘇我馬子の墓が伝わっているのでしょうか。
太子町にある磯長谷は、大和川の支流である石川流域にあります。蘇我氏の祖は石川宿禰(いしかわのすくね)と言われ、この一帯が蘇我氏の最初の本拠地との一つと考えられています。大化の改新では蘇我倉山田石川麻呂が登場し、蘇我氏はもとの石川を名乗るようになります。そんな土地だからこそ、聖徳太子と二人三脚で歩んだ蘇我馬子の墓のいわれができたのでしょう。