平家終焉の地

平家終焉の地
平清盛の三男が平宗盛です。
長男の重盛は清盛よりも先に病死し、次男の基盛は24歳で早世したため、三男の平宗盛が平氏の棟梁となりました。源氏との戦いとなり一の谷の合戦、屋島の合戦と戦いましたが敗退することになります。最終決戦となった壇ノ浦の戦いでは海に飛び込みましたが引き上げられて、義経によって鎌倉へ連行されます。鎌倉から京都へ戻る途中、義経が元服した場所のすぐ近くの大篠原で義経の命により切られました。ここが平家終焉の地となっています。
清盛の四男である知盛は壇ノ浦で「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と碇と共に海に沈んだと言われます。五男の平重衡は一の谷合戦で敗れたあと、鎌倉に護送されましたが、大仏や興福寺などを燃やされた南都衆徒の要求で引き渡され、木津川畔で斬首されました。平宗盛が切られたのと同時期でした。
■源平交代説
平家を倒した源氏でしたが、やがて北条家(平家)の支配となり、鎌倉幕府が続きます。この鎌倉幕府を滅ぼしたのが足利(源氏)で、ここから平家、源氏の源平交代説が出てきます。
ですので足利義昭を追放した信長は平家を名乗っています。秀吉は農民出身が周知の事実で系図書きかえができないため、源平藤橘という四姓に豊臣という別の姓を創出します。これは天才的なやり方ですね。家康となると、また源平交代説となり、松平家を得川家(徳川家)という新田系源氏に結び付けることとなります。

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