信長のマイナスイメージ戦略に利用された高天神城

高天神城
All AboutのRed Ball終了後、掛川へ移動して一泊。
朝、浜岡原発の方へ向かうバス(一人だけでした)に乗って、歴史にしょっちゅう登場する高天神城へ行ってきました。お城ジオラマ復元堂でも有名な山城です。
高天神城はよく整備されて遊歩道や看板もたくさんあり、とっても楽に登れる山城です。一城別郭の城として有名で2つの尾根筋に郭群が二つあり、それぞれが独立した構造になっていますが、この二つの城が連結して高天神城になっています。
古くから城が造られていましたが、歴史で有名なのは徳川家康の支配下になってから、なんせ武田信玄が攻めても落とされなかった名城です。ところが武田勝頼に城を奪われてしまいます。勝頼は信玄以上に優秀でした。
■信長による武田勝頼マイナスイメージ戦略
この後、織田信長の命を受けた徳川家康が高天神城の周りに砦群を作り、持久戦に。高天神城を守っていた岡部元信は降伏を申し出ましたが信長は許しません。この当時、敵の動きで動くに動けなかった武田勝頼は援軍を送れませんでした。結局、岡部元信は残った兵をまとめて最後の攻撃に出撃し玉砕してしまいます。
ここぞとばかり、信長は”武田側で戦っても勝頼は助けてくれない”とイメージ操作をはじめます。SNSによる拡散はできませんので、もっぱら手紙と口コミです。織田、徳川、北条が攻め込んだ時に武田側で裏切りが続出したのは、このイメージ戦略の結果でした。
と言っている信長自身も自軍だった上月城の尼子氏を助けられず見捨てていますので、勝頼と一緒なんですが(笑)信長は別所長治、荒木村重、松永久秀などにずっと裏切られていますのでマイナスイメージは今さら関係なかったようです。

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