大和川の跡

新開地の自然堤防跡

和気清麻呂の時代から懸案だったのが大阪の東側を流れる大和川の付け替え。

古代から大和川は北に流れ、最終的に淀川と合流して大阪湾にそそいでいました。ただ洪水をよく引き起こしていたため奈良から流れてきた大和川をそのまま西に流して大阪湾へ直接つなごうという大事業です。

■大坂の陣
大坂の陣では大和川沿いに進軍してきた徳川軍を河内平野に侵入してくるところを隘路で待ち受けることにしました。これが道明寺の戦いで、後藤又兵衛が討死することになります。

当時は大和川が北に流れていましたので、京都を出発した徳川本隊は大和川の東側にある東高野街道を南下していました。街道沿いに伸びきった隊に横槍をいれようとして始まったのが八尾・若江の戦いで木村重成が討死します。このように大和川は大坂の陣の舞台となりました。

■吉田に残る大和川遺構
近くの近鉄東大阪線・吉田駅周辺には大和川にちなむ地名が今も残っています。「川中」、「島之内」など極めつけは水走(みずはい)でしょう。

大和川が付け替えされる前、吉田駅近くに新開池という池がありました。今は住宅地となってしまいましたが、今も2メートル程の段差がずっと残っています。これが新開地の自然堤防跡です。写真の住宅の向こう側に2メートルほどの段差があり、ずっと続いています。

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