伊勢・神戸家をM&A戦略で乗っ取った織田信孝(信長の息子)は、やがて遊軍として活躍することになります。信長の命令で越前一向一揆討伐戦や雑賀攻め、播磨へも伊勢勢を率いて出陣しています。
織田信孝が丹羽長秀と共に大坂から四国の長宗我部を攻めようとしていた時に発生したのが本能寺の変。明智光秀を討つのに一番近い所にいながら本能寺の変が伝わると兵が逃亡してしまい、なすすべがありません。そこへ備中高松城より中国大返しで軍を引き連れてきたのが秀吉で織田信孝は名目上、弔い合戦の総大将に祭り上げられます。
■山崎の合戦
天王山との戦いとも言い、明智光秀の敗因は天王山をおさえられなかったという説がありますが、どうも違うようで明智光秀が考えていたのが長篠の合戦の再現だったようです。光秀は山崎の小泉川(円明寺川)沿いに長大な柵をもうけ、秀吉を武田勝頼に見立てて得意の鉄砲戦術で破る予定でした。ですが秀吉も見抜いていたようで、翌日に総攻撃をするという情報を流しながら、雨の日の夕刻に攻め込み、雨で鉄砲を使えなくして勝利をおさめたようです。
■織田信孝の墓
清須会議の後、織田信孝は美濃国一国と岐阜城を支配することになりますが、やがて秀吉と対立。連携を組んでいた柴田勝家が北庄城で滅び、自身は尾張で切腹することとなります。享年26歳でした。
信孝の首を家臣が神戸に葬ろうとして持ち帰りましたが、戦乱の末に果たせず、関に葬ったといわれています。それが関宿の街道筋にある福蔵寺で、もともと織田信孝が信長の供養のために設立した寺でした。