天理の商店街を抜けて山の辺の道に至ると豊田城跡への案内板があり、そのまま堀底道になっている山道を登っていくと豊田城の出郭に到着します。筒井氏の与力だった豊田氏の城という話ですが、城の規模がめちゃくちゃ大きく一国人の城ではないですねえ。
【大和永享の乱】
中世の大和は北側の筒井氏、南側の越智氏に分かれて覇権を争っていましたが、豊田氏は越智氏側で筒井氏とは敵対関係にありました。1429年に豊田氏と井戸氏の間で対立が起きた時に井戸氏側についたのが筒井氏、十市氏で、豊田氏側についたのが越智氏、箸尾氏となります。興福寺と幕府の停戦勧告は無視され、2陣営に分かれて争乱が大和一国に拡がります。これが大和永享の乱となります。
越智氏に属していた豊田氏は筒井氏の反撃を受け、まず越智氏が撃退され、そして豊田城が落城します。やがて松永久秀が大和に侵入し、豊田氏は最初は抵抗していましたが豊田城を落とされ、結局は松永久秀の傘下に入ることになりました。この時に豊田城は松永勢によって大改修されたのでしょう。織田信長が松永久秀から筒井順慶へスイッチングし、筒井順慶が大和を支配することになると豊田氏は筒井氏の与力になったようです。
【豊田城】
郭は藪だらけですが、すごいのが縦横にめぐらされた横堀や竪堀です。大きく分けて5つの郭で構成され、周囲を鉄壁の堀で囲んでいます。しかも外郭掘が2本、発見されており、すさまじい土木力で造られた山城です。