おやぢの会

博多廊法善寺店
博多廊法善寺店

昨日は博多廊法善寺店で「おやぢの会」。
猛暑で日本人はあまり出歩いていないせいか道頓堀界隈で聞こえてくるのは外国語ばかり。店の呼び込みも中国語でやっています。
法善寺のすぐ横にある博多廊で「おやぢの会」。年2回、集まるのが恒例の会で参加者メンバーは変わっていませんので、どんどん高齢化しています。最初の話題も病気の話題ですねえ(笑)。
メインは水炊きでしたが、これが絶品!おいしくいただきました。

令和時代にも現役の軽便鉄道

三岐鉄道北勢線
三岐鉄道北勢線

令和の時代になっても現役で走っている軽便鉄道に乗ってはるか北へ。終点の阿下喜駅からは迎えに来てもらった車でさらに北を目指します。住所は一応、三重県なんですがどう考えても関ケ原からの方が近いですね。関ケ原の戦いで敵中突破した島津軍が逃げた道になります。大阪から行きましたが東京へ行くよりも時間がかかります。遠かった。

要件は工業団地にある企業さんでの研修なんです。が、この辺りは近江や美濃への街道が通っていて山城だらけ。研修が冬なら絶対に山城に登ったんですが残念です。

久しぶりに三岐鉄道・北勢線に乗りましたが、田園地帯を軽便鉄道が走る姿はいいですねえ。最近、鉄道むすめ「楚原れんげ」というキャラクターの売り出しを始めたそうで列車にペイントされていました。楚原駅と蓮花寺駅から名づけたそうです。

本願寺の戦いの舞台「楼の岸砦」

楼の岸砦
楼の岸砦

エル・大阪(天満橋)近くにあるのが坐摩神社行宮。ここにあったのが信長が造った楼の岸砦ではと伝わっています。

織田信長が姉川の合戦で浅井・朝倉と近江で戦っている頃、信長のいない摂津に阿波から三好三人衆が進出し福島と野田に砦を築きます。対応するため信長は天王寺に砦を築き本陣にし、野田、福島砦近くに楼の岸砦や川口砦を造ります。信長は三好三人衆を、もう一歩というところまで追い込みますが、この時、大坂の町に半鐘の音が鳴り響き、石山本願寺が突如、信長軍に攻め込んできます。よく映画などで描かれるシーンで信長公記などに記録されています。ここから石山本願寺との十年に及ぶ戦いが始まります。

坐摩神社行宮は上町大地の北西にあり、ここから高台になっています。楼の岸砦は石山本願寺に奪われ、天王寺の戦いでは楼の岸砦から1万もの軍勢が出撃して天王寺砦を取り囲み、守っていた明智光秀を追い込みます。急報を聞いた信長は京都からわずかな手勢を率いて本願寺勢を強襲して明智光秀を助けます。この時に信長は敵の鉄砲を足に受けて軽傷を負いますが、来年の大河ドラマでは絶対に出てくるシーンでしょう。

ただ1万もの軍勢が駐屯できた砦ですので高台にある北大江公園あたりに楼の岸砦の中心地があったのでしょう。

梅田阪急ビアガーデン

梅田阪急ビアガーデン
梅田阪急ビアガーデン

知り合いからビアガーデンに行きませんかというお誘いが 

”一番暑い夏の金曜夜にビアガーデンに行こう”となんでも6月早々に12名で予約していのを忘れていたということで、そこらへんに声をかけているようです。ビヤガーデンなんて久しぶりなんで、OKと返事。 

場所は阪急百貨店13階にある”うめだ阪急ビアガーデン”でした。けっこう人気があるそうで19時には予約客がずらっと列を作っています。結局、7名が参加したんですが5名は初めての方ばかり。ライター、校正者、公認会計士など多彩なメンバーでした。 

隣がオフィスビルになっていて、煌々と電気がついて残業している横で飲むビールは格別ですねえ。

三重大学の講義が終了

三重大学 図書館
三重大学 図書館

三重大学の前期授業も本日で終了し、明日から期末試験です。 

それにしても暑いですね。三重大学には生物資源学部(昔の農学部)もあってキャンパス内には羊もいますが、さすがに暑そうですね。期末がちかいせいか図書館前の自転車がいつもより多く止まっていました。 

「情報科学基礎」という情報リテラシーやセキュリティの初歩を教育学部の学生に教えていますがプログラミング教育もあって当初からJavaScriptでやろうかなと思っていたら来年度から小学校でのプログラミング教育が必須になることが判明。急遽、Scratchに切り替えて、どうやって三角形の作成から多面体の作成へ教えていったらいいのかも含めて講義しております。これから先生を目指すにはダンスも英語もプログラミングも教えなければならず大変ですねえ。 

期末試験は面倒なのでやめてレポート試験にしました。

丸ノ内商店街

丸ノ内商店街
丸ノ内商店街

津の丸ノ内商店街(津城の城域にあったので丸ノ内です)は国道23号線に沿って南北になっているので、暑い夏の朝は東側の日陰を歩きます。これでだいぶ温度が違いますね。

神田神保町の古書店はほとんどが北向きになっていて、これは日で本が焼けるのを防ぐためです。インバウンドで賑わう奈良の東向商店街は東側がすぐ興福寺の境内になっていて西側にしか店ができなかったので東向という名前となりました。ところが興福寺の力が弱くなり東側にも店が作られるようになって、ふつうの商店街となって名前だけが残っています。