古市城の本丸推定地は小学校になっていますが、近くに出城が2つ残っています。藤原城は藪だらけにさすがに入れませんでしたが、高山城は郭に入れる所があったので中に突入。見事な郭跡と堀切が残っていました。写真が郭から見た堀切なんですが、藪だらけで分かりませんね。
古市氏は筒井氏とずっと争っており、一度は筒井氏を追い落として衆徒の棟梁(大和の支配権)を手に入れますが勢力を盛り返した筒井氏に攻められ没落します。子孫は生き残り、小笠原家茶道古流などを伝えています。
興福寺や春日社の荘園管理をしていた大和の国人は春日若宮祭礼に流鏑馬を勤仕するしきたりがありました。十市氏、箸尾氏、筒井氏、楢原氏、越智氏などは奉仕していましたが、なぜか古市氏は入っておらず異端と思われていたようです。それが理由なのか赤沢氏や木沢長政、松永久秀といった大和国外からの侵攻勢力と組みすることが多く、大和の国人連合と松永久秀との間で起きた辰市合戦では古市氏は松永方で戦っていました。松永久秀が信長に滅ぼされたあと、古市氏は隠棲したようです。