読み納め「行動経済学の逆襲」

行動経済学の逆襲
行動経済学の逆襲

書籍・雑誌ともに15年連続で売上が前年を下回ったそうです。

皆さんスマホばかり見て読書する人が減っているのは実感できますがジュンク堂や丸善などへ行けば、カゴ一杯に本をいれている人をよく見かけます。本屋が減っているので読書好きが集中しているんでしょう。

今年は割とよく本を読め累積で119冊でした。最近は年間100冊に届かないことが多っかたので、ツン読の解消に少しだけ寄与しました。プライマリーバランスとしては、あいかわらずマイナスで「買う>読む」が解消できていないところがネックですね。

今年、最後に読んだのが「行動経済学の逆襲(リチャード・セイラー)」でノーベル経済学賞を受賞した著者が行動経済学がどう生まれてきたのかを語った一冊。中小企業診断士らしい一冊ですね(笑)。たまたまで、ほとんどは歴史モノばかり読んでいます。

越智氏の支城 玉手山城

金毘羅神社
金毘羅神社

玉手といってもスーパー玉出じゃないですよ。

戦国時代、奈良の有力国人だった越智氏は、南北朝時代には南朝側で戦いました。高取城を造り、貝吹山、玉手、佐田の山々にも支城を造り奈良盆地の東南部をがっちり抑えていました。玉手城は西側を守る拠点で孝安天皇玉手丘上陵の隣にある玉手山頂上にあります。

JR玉手駅を降りると玉手山はすぐそば、まずは金毘羅神社を目指します。金毘羅神社の拝殿の裏に削平地が続き、ここから尾根道が2つに分かれています。最初は別の尾根に入ってしまい、出城のような郭を一つ見つけたのですが城跡はなし。戻って別の尾根道を進むと玉手山城に到達しました。郭は2つあり、主郭の周りには二重の帯郭がついています。また東側に畝状竪堀があり、東側の守りが厳重なので大手道が東側にあったのかもしれません。

倒木も多いのですが、なかなか楽しめる山城です。これで山城も登りおさめかなあ。

二塚古墳(新庄)

二塚古墳
二塚古墳

奈良・新庄にあるのが二塚古墳。丘陵の尾根の先端を分断して造られた前方後円墳で、標高200メートルほどの所にありますので畝傍山など大和盆地を一望できます。

被葬者はこの辺りを拠点とした葛城氏でしょう。けっこう変わった古墳で、前方部、後円部、造り出し部のそれぞれに横穴式石室があります。つまり3つの石室があります。

■同じ古墳に2人を葬る
2人を葬るケースはよくあり、斉明天皇・間人皇女が被葬者と考えられる牽牛子塚古墳は石室が1つで2つの石棺が入るようになっています。後円部と前方部の両方に葬られるケースもあり、一つは卑弥呼の後に擁立された台与の墓ではないかと言われている西殿塚古墳です。卑弥呼を補佐したのが弟でしたので、西殿塚古墳には台与と台与を補佐した男性が葬られているのではと言われています。

世界遺産となった大山古墳も埋葬場所がどうも2つ以上あり2人以上が葬られているようです。大阪にある大塚山古墳は8ケ所の埋葬場所があります。二塚古墳には全長60メートルもの造り出しがあり、ここに石室がありました。造り出しというのは前方部、後方部の間にある半円形もしくは方形の壇状の施設です。通常は祭礼場所として埴輪が並べられます。

■葛城氏と蘇我氏
葛城氏は代々、大王に正妻を出す家柄でしたが雄略天皇の頃に没落してしまいました。葛城には高天原や天岩戸伝説があるので古代の大和朝廷は大王+葛城氏体制だったのでしょう。蘇我氏はこの葛城氏の傍流だったという説があり、物部氏などが大王に正妻を出せなかった家系でしたが、蘇我氏は大王家と姻戚関係を結ぶことができました。これを手本にしたのが後の藤原家です。

蘇我氏は葛城氏として復活したので「我、蘇り」と命名したという話もありますが、後世の歴史書によっていろいろと改ざんされた可能性が高いので本当のところはよく分かっていません。

行基の久米田池

久米田池
久米田池

灌漑施設のインフラ整備を行ったのが行基で久米田池、狭山池、昆陽池を作りました。狭山池は日本最古のダム式ため池として有名で、昆陽池は伊丹空港から出た飛行機からミニ日本列島が見えることで有名です。

久米田池は大阪府内最大の面積を持つため池で、周りを歩くと大きさが実感できます。神亀2(725)年~天平10(738)年の14年をかけて造られました。池を管理するために隆池院(現在の久米田寺)が整備されます。敷葉工法で堤が造られ、1300年経った現在も現存しています。

■異端だった行基
民衆への仏教の布教活動が禁じられていた時代、禁を破って布教する行基とその集団は異端と思われており、続日本記には「平城京の東の丘陵で妖言を吐き数千人から多い時には1万人を集めて説教し民衆を惑わしている」と記載されています。橋をかけるなど社会事業を推進しており反政府運動でもないので政権側から接近し最終的には大仏建立のプロジェクトマネージャーに就任します。

近鉄の大阪線と奈良線が分岐する駅が布施駅で布施という地名は困窮者のための福祉施設である布施屋があったことに由来しています。

光明皇后のお墓が岸和田にある?

光明塚古墳
光明塚古墳

久保田寺の境内にあるのが光明塚古墳。昔は光明皇后塚と呼ばれていたそうですが、光明皇后のお墓は奈良の佐保山東陵にあるので何とも不思議な話です。もともとは直径25メートルから30メートル程度の円墳だったようで、もちろん光明皇后の奈良時代よりも古い時代の古墳です。

久米田寺の近くにある光明池は光明皇后生誕伝説から名づけられましたので、まんざら縁がないわけではなさそうです。光明池というと光明池自動車教習所のCMを思い出しますなあ。

また聖武天皇を補佐したのが橘諸兄、吉備真備、玄昉ですが、橘諸兄は光明皇后と異父兄妹で灌漑用のため池である久米田池を作ったのは行基&橘諸兄コンビです。久米田寺近くの貝吹山古墳は橘諸兄の墓と伝えられていましたが、これも時代があいませんし本来の墓は井手町にあります。

聖武天皇の命のもと橘諸兄や行基が中心になってインフラ整備を行ったことから、そういった伝説が地元で広がっていったようです。

行基が開祖した久米田寺

久米田寺
久米田寺

楢原氏の菩提寺である九品寺は行基が開祖と伝わるお寺ですが、青森県から宮崎県まで行基が開基したとの伝承がある寺がなんと約600!。まあ聖徳太子伝説と同様にあやかってということでしょう。

岸和田にある久米田寺は正真正銘、行基が開祖となっています。行基が開祖した49院というのがあり、その中にある隆池院(久米多)が現在の久米田寺です。創建は738年と伝わっています。久米田寺の隣に久米田池という人工池(ため池)があり、聖武天皇の命をうけて行基が開削し、この久米田池を維持管理するために作られたのが久米田寺です。

戦国時代は三好実休と畠山高政が戦った久米田の戦いや織田信長による高屋城の戦いの兵火等により、寺はほぼ焼失しますが江戸時代に本堂などが再建されました。

おやぢの会2019

ふぐ久
ふぐ久

冬はふぐ久。
空揚げは言ふべきにもあらず、白子のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、フグ鍋持て渡るも、いとつきづきし。

ということで雨降る中、鶴橋の「ふぐ久」で恒例の「おやぢの会」。とっても平均年齢が高い会で、しかも会話の半分以上が下ネタという会です。フグ雑炊、おいしかった!

九品寺

九品寺
九品寺

楢原城からずっと下ってくると楢原氏の菩提寺である九品寺があります。九品寺からは眺めがよく畝傍山など大和三山や大和盆地がくっきり見えます。

九品寺は行基が開祖と伝わるお寺で有名なのが裏山にあるのが千体地蔵です。楢原氏は南北朝時代は越智氏とともに南朝側でした。後醍醐天皇による建武新政が崩壊すると、日本全国は南北朝の動乱時代となります。大和でも吉野や金剛山が戦場となるなか楢原城(奥城?)を拠点に楢原氏は戦っていました。

楠木正成に味方して参戦した楢原氏の兵士たちが自分の身代わりとして地蔵を九品寺に奉納したと伝わっています。千体どころか1800体あるといわれ、ということは楢原氏はかなりの勢力だったんですね。

楢原城(奥城)

楢原城
楢原城

楢原城・中城をどんどん進んでいくと別の尾根に奥城があります。もともと別の城だったのを中城を造って前城とつなげ一体運用する山城に変えたようです。結果的に高天神城のような一城別郭方式になりました。奥城は楢原城の中で一番高い標高380mを主郭とした城で、葛城山へと続く西尾根に数条の堀切を設けて遮断しています。

縄張図を見ても入口がよく分からないので尾根沿いを登っていくと、やがて崖のような状況に。ゆるい崖なんで、なんとか直登して、ようやく郭にたどりつきます。いくつも続く郭の高低差が10メートルほどある造りになっています。道が分からないので、今度も切岸を登ることに、疲れる山城です。郭が連なっていますが中城のような技巧的なものは少なく、やはり設計思想が違う別の城だったようです。

楢原城は前城、中城、奥城とそれぞれ違った縄張りを楽しめる山城になっています。

楢原城(中城)

楢原城
楢原城

楢原城・前城の郭を次々と進んでいくと堀切が出てきます。ここから先が中城になります。中城に入っても郭が続きますが、けっこう技巧的になって堀切に土橋を通したり、極めつけは主郭の西側尾根を三重の堀切が断ち切っていました。また畝状竪堀群が南北両側面にビッシリあります。

前城は左音寺という寺を取り込んで城郭したようです。たぶん家臣団の居館などが並んでいたのでしょう。中城も倒木や藪が多く、郭の入り口がよく分かりませんので土塁を登ることになります。なかなか疲れる城ですねえ。

楢原氏は南北朝時代越智氏と組んで南朝方に属しており北側の布施氏と緊張関係にありました。戦国時代には南側の吐田氏との間で合戦を繰り広げたこともあり、西方尾根と北方への防御を意識した縄張りになっています。