修学院・雲母坂城

修学院・雲母坂城
修学院・雲母坂城

一乗寺城から京都一周トレイルコースに入って山をいくつか超えると雲母坂へ向かう登山道があります。この登山道を進んでいくと雲母坂があり、ここに山城がありました。修学院離宮の脇より比叡山山頂に至る古道で、この古道を登ってくる敵を撃退するための城でした。

それほど大きな山城ではありませんが、道を効果的に攻撃できるように郭が並びます。雲母坂から一乗寺城へ回り込めるために、雲母坂を防衛する必要があり一乗寺城と同時期に造られたようです。ですので造ったのは浅井・朝倉連合軍でしょう。

■志賀の陣
三好三人衆を攻めていた織田信長に突然、襲い掛かってきたのが石山本願寺。摂津で動けなくなった信長に対して浅井・朝倉連合軍が京都へ向けて動きます。迎え撃ったのが宇佐山城の森可成(森蘭丸のお父さん)で討死しましたが宇佐山城は守られました。

浅井・朝倉連合軍は山科まで進軍して京都を狙います。知らせを受けた信長は摂津戦線から撤退して京都へ向かうと浅井・朝倉連合軍は比叡山へ後退します。この時に使われた陣城の一部が一乗寺城と雲母坂城だったようです。

信長は比叡山に対して味方につくか、ダメなら中立を守ってほしい、浅井・朝倉に味方するなら焼き討ちにすると通告しましたが、返事はありませんでした。「麒麟がくる」でもハイライトになる比叡山焼き討ちは志賀の陣が発端となります。

一乗寺城

一乗寺城
一乗寺城

曼殊院門跡寺院の奥から比叡山への登山道があり、これを登っていくと比叡山トレイルコースにぶち当たり、この道沿いに進んで途中から尾根に入ると一乗寺城に入れます。

一乗寺城は2つの城域に分かれていて、間を京都と坂本を結ぶ白鳥超えの道が走っています。地元の国人である渡辺氏の城という説もありますが、志賀の陣で織田信長と対抗した朝倉・浅井連合軍が作った陣城の一つではないかという説もあります。信長にとっては苦しい戦いで、この後、比叡山の焼き討ちになります。

一乗寺城は土塁などがありますが、技巧に凝っているわけではなく臨時的に作られた陣城の可能性が高そうです。

曼殊院門跡寺院

曼殊院門跡寺院
曼殊院門跡寺院

正月になると天皇陛下が伊勢神宮へ参拝しますが、この風習が始まったのは明治天皇からです。それ以前は、古代の持統天皇しか参拝しておらず、壬申の乱の頃になります。

明治政府の国造りで神道が重視され伊勢神宮へ参拝するようになりましたが、幕末まで歴代天皇が重視したのがお寺です。門跡寺院というのがあり、皇室、公家が出家して住職を務める寺院のことで、お寺のなかでも最高格の位置づけととなります。仁和寺に出家後の宇多法皇が入りましたが、絶大な権力をもっていましたので門跡寺院どころか御室御所と呼ばれるようになりました。

東山・一条寺にあるのが曼殊院という門跡寺院。書院や狩野探幽の障壁画などが、そのまま残っていて、特に枯山水の庭が見事です。曼殊院の横から一条寺城へ登ることができます。

自転車1台で変わる未来。カンボジアの子供たちに通学用自転車を!

カンボジアの子供たちに通学用自転車を
カンボジアの子供たちに通学用自転車を

知り合いの安田さんが毎年、カンボジアの子供たちに「自転車」を届ける活動をしています。

クラウドファンディングReady forを活用しているんですが、プロジェクトが無事に終了し、写真などの報告が届きました。今回提供された自転車が165台、3か所の新たな自転車クラブの設立、13か所の既存の自転車クラブへのパーツ補給ができたそうです。

カンボジアは中学が少ないため10キロ~20キロが校区になります。自転車が無いと徒歩で数時間かけての通学となります。農村地域ですので中学生の親は農業を営んでおり、中学生の子ども達は親にとっては貴重な労働力です。だから「学校なんて行ってる暇があったら農作業を手伝え!」となり学校に通うことを諦めてしまいます。

これでは貧困を抜け出せませんので、学校でたくさん勉強して自分の人生を切り開き、家庭を支えたいと考える子供たちに自転車を送り通学時間を少しでも短くなるよう安田さんが手助けしています。

自転車には協力者の名前入りパネルがつけられるので、今頃、「合同会社エムアイティエス(LLC MITS)」のパネルをつけた自転車がカンボジアを走っていることでしょう。

50代のための年金入門

堀越正夫
堀越正夫

知的生産の技術研究会・関西2月セミナーを開催。テーマは「50代のための年金入門」で講師は堀越社労士経営支援事務所 代表の堀越正夫さんです。


■2000万円問題
年金以外の資産が2000万円が必要になると報道され大問題となりましたが、そもそもの数字が年金生活になって家計の見直しをしないことが前提になっています。また元となっている家計調査ですがピックアップ調査なので毎年、差が出ており翌年に同じ計算をしたら1500万円の不足となって500万円も減ってしまいました。ただマスコミのどこも報道しません。また60代の悩みは健康、認知症、自信の介護でお金は4番目になります。

■年金制度とは
・報酬比例分は老齢厚生年金と同じで、もらうのもずらしても年金が増えるわけではない
・日本年金機構から封書が届くので、よく読んで申込すること、自分から言わないと年金はもらえない
・配偶者の年齢によっては加給年金もある
・繰り上げ、繰り下げでどう変わるの
など複雑な年金制度を分かりやすく説明してもらいました。それにしても分かりにくいですねえ。

備中浅尾陣屋

備中浅尾陣屋
備中浅尾陣屋

総社駅の北にあるのが浅尾陣屋跡。浅野藩の本殿ですが、一般の陣屋と違って丘陵の上にあり、土塁などもあって山城のような造りになっています。戦国の気風が残っている時に造ったのでしょう。

浅尾藩の藩主は蒔田氏で本貫はどうも伊勢の雲出のようです。蒔田広定は関ヶ原の戦いでは、西軍に属して、西軍が占領した伊勢安濃津城に駐屯していました。ところが西軍が負け、高野山に蟄居します。岳父が小説「九十三歳の関ヶ原 弓大将大島光義」でも有名な弓の名手・大島光義であり、いろいろと取りなしてくれたことから備中浅尾1万石の領します。

幕末、蛤御門の変の時には京都見回り組を担当し、長州を撃退します。このことが遠因なのか慶応2(1866)年に長州藩第二奇兵隊を抜けた浪士達により、倉敷代官所と一緒に陣屋が焼き討ちされてしまいます。いつも負け組に組するんですね。陣屋は十分に再建されないまま明治維新を迎えることになります。

作山古墳

作山古墳
作山古墳

備中国分寺の近くにあるのが作山古墳という巨大前方後円墳。

中に入れますが全国第10位の規模なんで、ある意味、登山ですね。古墳時代中期の5世紀中頃に造られたとみられ被葬者は吉備の首長でしょう。雄略大王などが活躍していた時代です。

大和朝廷の祖となったと考えられる纏向遺跡には全国各地から人が集まり人工都市が造られました。吉備も大きな役割を果たしていたようで、かなり力があったようです。ですので造山古墳や作山古墳などの巨大古墳ができたようです。

■鬼退治で吉備がやっつけられる
岡山といえば桃太郎ですが、伝説の元になったのが吉備津彦命。出身は奈良県磯城郡田原本町で、四道将軍の1人として吉備に派遣され温羅という鬼を倒したことになっています。どうも大和朝廷と吉備が不穏な関係になって攻められた逸話ではないかという説もあります。

あさひ

あさひ
あさひ

午後は四日市商工会議所で出張相談。

駅前の大衆食堂のあさひに入ったら、3組のシニア世代が宴会をやっていて、店の半分を占拠しておりました。昼からいいな~あ!と思いながら本日のランチ「生姜焼き定食」を食べておりました。

岡山デミカツ丼

カツ丼
カツ丼

岡山駅のすぐ近くに奉還町商店街があります。明治となり職を失った武士が、藩から与えられた奉還金を元手に商売を始めたので、この名前になっています。

奉還町商店街には古い店舗から新しくお洒落な店まで混在しています。商店街の中にあったのがグリルB食というお店。かつ丼を頼んだらソースカツ丼になっていて、これがなかなかいけます。

岡山のB級グルメというと岡山ラーメンとデミカツ丼だそうで、岡山ラーメンは割と食べているので、次はデミカツ丼に挑戦しなければ

備中国分寺

備中国分寺
備中国分寺

鬼ノ城に登った後、レンターサイクルで散策へ。よく観光ポスターに登場するのが備中国分寺の五重塔です。現在の建物は江戸時代中期(1844年)頃に再建されたものですが岡に建っているので、なかなかの撮影ポイントになっています。吉備路サイクリングロードというのが整備されていて快適に走れます。

聖武天皇が全国に造ったのが国分寺です。他にも奈良の大仏を作りました。費用を捻出するために出したのが墾田永年私財法です。律令国家ですので、土地は国のものでしたが、これを根底から崩す法律でした。開墾した田は永久に私有できることにしました。

目論見は開墾した田からは税収が入りますので、短期的に見ると奈良の大仏や国分寺はできましたが長い目で見ると荘園制度や土地を守るための国人が出始め、武士が台頭するきっかけになってしまいます。