八坂の塔。正式には法観寺の五重塔です。
戦国時代、上洛すると八坂の塔に定紋入りの旗を掲げて誰が京都を支配するか現す習わしがありました。これが「都に旗をたてる」です。
豊臣秀次もやっています。
93歳の時に関ケ原合戦の大垣城攻めにも加わった生涯現役の武士・大島光義という人物がおり、弓の名手でした。豊臣秀次に仕えた時、秀次は都の主が代わったことを示すため八坂の塔に旗を掲げ、それだけでなく八坂の塔の窓に、矢を放つよう家臣に命じました。皆が失敗を恐れて尻込みする中、当時、84歳だった大島光義が名乗り出て、一町以上離れた五重の窓に10矢全てを射込んで喝采を浴びます。
弓という一芸を磨き、どんな時代でも生き残ることができることを示した大島光義は97歳で亡くなります。