新型コロナウイルスの影響でセミナーの仕事がなくなり、こんな時は山城へ。
なんてたって山城には誰もいないし、風通しはよすぎるぐらいで、おまけに体力増強と新型コロナ対策はバッチリです。ということで佐生日吉城へ。
佐生日吉城は佐々木六角氏が本拠とした観音寺城のすぐ近くにあります。佐々木六角氏の重臣・後藤氏の詰城で築城時期はよく分かっていません。石垣が巡らされており築城技術の高さが分かります。郭からは琵琶湖が見渡せます。
■観音寺騒動
後藤氏は代々、佐々木六角氏の宿老を勤め重用されましたが、永禄6(1563)年に家督を継いだ18歳の六角義弼は、ことごとく執政を批判する後藤但馬守賢豊が邪魔になり、嫡男と共に誅殺してしまいます。パワハラ殺人ですねえ。
さすがに六角氏の主だった家臣達は反発し、六角氏と対立していた小谷城の浅井氏の援助を得て、観音寺城へ攻め上がります。六角義弼は蒲生賢秀(蒲生氏郷のお父さん)を頼って日野中野城に落ちのび、後藤氏とも縁城関係のあった蒲生賢秀の斡旋で和議が成立します。
結局、六角義弼は隠居し、六角氏の跡目は六角義定が継ぐことになりました。この騒動で六角氏の内部体制はガタガタとなり、織田信長が足利義昭を報じて上洛する時に抵抗できなくなります。六角氏が没落した後、後藤氏は蒲生氏に仕えることになります。佐生日吉城の碑は後藤氏の子孫が建てたものだそうです。