佐生日吉城

佐生日吉城
佐生日吉城

新型コロナウイルスの影響でセミナーの仕事がなくなり、こんな時は山城へ。

なんてたって山城には誰もいないし、風通しはよすぎるぐらいで、おまけに体力増強と新型コロナ対策はバッチリです。ということで佐生日吉城へ。

佐生日吉城は佐々木六角氏が本拠とした観音寺城のすぐ近くにあります。佐々木六角氏の重臣・後藤氏の詰城で築城時期はよく分かっていません。石垣が巡らされており築城技術の高さが分かります。郭からは琵琶湖が見渡せます。

■観音寺騒動
後藤氏は代々、佐々木六角氏の宿老を勤め重用されましたが、永禄6(1563)年に家督を継いだ18歳の六角義弼は、ことごとく執政を批判する後藤但馬守賢豊が邪魔になり、嫡男と共に誅殺してしまいます。パワハラ殺人ですねえ。

さすがに六角氏の主だった家臣達は反発し、六角氏と対立していた小谷城の浅井氏の援助を得て、観音寺城へ攻め上がります。六角義弼は蒲生賢秀(蒲生氏郷のお父さん)を頼って日野中野城に落ちのび、後藤氏とも縁城関係のあった蒲生賢秀の斡旋で和議が成立します。

結局、六角義弼は隠居し、六角氏の跡目は六角義定が継ぐことになりました。この騒動で六角氏の内部体制はガタガタとなり、織田信長が足利義昭を報じて上洛する時に抵抗できなくなります。六角氏が没落した後、後藤氏は蒲生氏に仕えることになります。佐生日吉城の碑は後藤氏の子孫が建てたものだそうです。

本能寺への道

沓掛への山道
沓掛への山道

峰ヶ堂城は丹波と京を結ぶ唐櫃越の古道沿いにあります。

天正10(1582)年6月1日、丹波亀山を出発し、沓掛(京と西国へ分岐点)から京都へ向かう軍団がありました。本能寺へ向かう明智光秀軍です。従来は発見されにくい山道を通ったのではないかという説がありましたが、以前、NHKが歴史探偵「本能寺の変」という番組をやっていて山道コースと街道コースを通った時の実験をやっていました。

結論はたくさんの軍勢を通すには街道を行くしかないということで、この写真の山道は使われなかったんですね。

峰ケ堂城

峰ケ堂城
峰ケ堂城

京大・桂キャンパスは山を切り開いて作られましたが、桂キャンパスの奥にあるのが峰ヶ堂城です。

丹波と京を結ぶ唐櫃越の古道沿いにあります。丹波から京への入り口を見張るための山城です。もともとは法華山寺という山岳寺院があり、戦乱で衰微していったあと、細川晴元の家臣である木沢長政が寺院跡に峰ヶ堂城を築きました。細川晴元は三好長慶の主君でもありました。

峰ヶ堂城には4つの城郭群があり、郭跡が残っています。本来はもっと城郭跡があったのですが桂坂ニュータウンの建設によって消えてしまいました。ニュータウンのすぐ横にも城郭があり、登り口が住宅の真向かいの坂を登るしかない立地で、何の看板もないので城があることを知らない人が見たら、どう考えても不審者ですね(笑)。

PCDesk 日付エラー

PCDesk
PCDesk

個人の確定申告は早々と終わったのですが、その後に法人の決算に取り組んでおります。

法人の場合はややこしくって法人市民税や府民税はeLTACを使って申告します。eLTAX対応ソフトウェアにPCDeskがあるんですが、これをダウンロードして行います。申告から税金の納付までPCDeskでできますので便利です。

2月末決算なので期をいれようと令和1年3月1日~令和2年2月29日と入力するとエラー画面になります。”おかしいなあ、閏年だから29日のはずなんだが”と、いろいろと試してもエラーは消えません。試しに令和1年を平成31年に変更したらOK。そうだ5月1日から令和1年になったんだあ。こんな細かなチェックしなくってもいいじゃないですか!

東山霊山城

東山霊山城
東山霊山城

東山山頂にある将軍塚から下り、今度は霊山山頂を目指します。

なんとか東山霊山城にたどりつくと割と小さな山城跡が残っていました。東山霊山城を造ったのは13代将軍足利義輝で天文21年(1552年)に築城が開始され、翌22年(1553年)には早々と落城し、廃城となってしまったようです。

■東山霊山城の戦い
細川晴元の家来だった三好長慶は反旗をひるがえします。足利義輝と三好長慶は手を結び、京都奪還を狙う細川晴元と対峙します。この時に足利義輝によって東山霊山城が造られました。ところが足利義輝と三好長慶が仲違いをして、今度は足利義輝と細川晴元が手を結びます。

足利義輝は船岡山に陣をはっていましたが、東山霊山城は三好長慶軍に攻められ落城。東山霊山城が陥落することによって足利義輝は5年間にわたっては朽木に逼塞することになります。大河ドラマ「麒麟がくる」では、たぶん出てこないでしょうね。

新型コロナウイルスに関する経営相談窓口

大阪産業創造館
大阪産業創造館

大阪府よろず支援拠点では新型コロナウイルスに関する経営相談窓口を開設しています。

通常は平日だけなんですが緊急事態ですので土日もコーディネータが手分けして出て相談に対応しております。本日午後の担当は私で事務局と2名体制で行っています。

大阪府よろず支援拠点は大阪産業創造館2Fにありますが、同じフロアに貸し会議室などの部門もあり土日も開いていますから、土日も明るいですね。

東山山頂公園

東山山頂公園
東山山頂公園

東山霊山城があるんですが、霊山に最短で登る道が封鎖されていて、とりあえず隣山の東山山頂からバイパス道を探すしかなさそうです。長楽寺横からの山道で東山を目指します。途中、京都一周トレイルに合流するのでハイカーが多くなります。

東山山頂には公園があって京都市街と反対側の山科が一望できます。ここには将軍塚もあり、桓武天皇が和気清麻呂の進言で、王城鎮護のために甲冑で身を固めた武将像を埋めた場所と伝わっています。京都タワーなどがよく見えます。

補助金検索ができないjGrants

jGrants
jGrants

ものづくり補助金、小規模企業持続化補助金の公募がスタートしましたが、ものづくり補助金については電子申請での受付になりました。使うのがjGrantsというシステムですが使いにくいですね。
大体、補助金一覧に検索機能がない。ひたすら自分が応募したい補助金をページをめくって探すしかありません。
また同じ補助金が経済産業局単位に複数あがっているので、これまた見つけにくい。都道府県などを入力させて該当する経済産業局分だけ表示させればよいのに。
全国で何万社も補助金検索に時間をかけさせたら、それだけで生産性向上に逆行しているんですが...。

御陵衛士の屯所(新選組)

御陵衛士の屯所
御陵衛士の屯所

東山にあるのが御陵衛士(ごりょうえじ)の屯所。

高台寺塔頭の月真院を屯所にしていたので高台寺党とも呼ばれています。慶応3年に新選組・参謀だった伊東甲子太郎が一派を率いて新選組を離脱します。新選組は基本的に佐幕で伊東甲子太郎は勤王倒幕だったので思想の違いがあったのは事実ですが、単純に近藤や土方のやり方が気にくわなかったのかもしれません。

伊東甲子太郎と一緒に離脱した15名のなかには池田屋事件で活躍した藤堂平助も入っていました。またスパイのため斎藤一も入っています。伊東甲子太郎は藤堂平助と一緒に近江屋にも行き、坂本龍馬に見廻組等が狙っているので土佐藩邸に移れと忠告していますが、ほどなく中岡慎太郎とともに近江屋で暗殺されてしまいました。

結局、新選組は伊東甲子太郎を騙し討ちし油小路七条に遺体を放置します。遺体を引き取りに来た御陵衛士を待ち伏せて藤堂平助ら3名が討死し、これが世に名高い油小路事件です。

御陵衛士の何名かは生き残り、伏見街道の民家で近藤勇を狙撃し、右肩に重傷を負わせます。また近藤勇が偽名を使って流山で捕まった時に新政府軍に入っていた元御陵衛士に正体を見破られ斬首となりました。

銅閣

銅閣
銅閣

金閣、銀閣が有名ですが京都には銅閣もあります。

東山に大雲院があり、ここに銅閣があります。建てたのは大倉財閥の設立者である大倉喜八郎で、渋沢栄一らと鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立した実業家です。大倉財閥というとホテルオークラや札幌の大倉山スキー場などがあります。

出来たのは昭和3年で3階建てになっています。屋根は銅板葺きで祇園祭の鉾を模した形をしています。