大坂夏の陣で久宝寺に陣取ったのが長宗我部盛親。ゲームやアニメではめちゃくちゃイケメンに描かれています。刀剣男子など、よう分かりませんな~あ。
冬の陣の和睦条件で大坂城の堀を埋め立てしたため豊臣軍は野戦をせざるをえませんでした。生駒山沿いの東高野街道を京都から進軍してくる徳川軍を横から攻撃するため出撃したのが長宗我部盛親・木村重成・増田盛次隊ら約1万です。当時、大和川は付け替え前ですので北に流れ、鴻池や新開池など湿地帯が拡がっていました。
徳川軍としては大軍が動かせないし湿地帯を避け、柏原、道明寺あたりまで南下し大和からの徳川軍と合流して大坂城を攻めるしかありませんでした。この東高野街道で行われたのが高師直と楠木正行の四条畷の合戦で、昔からここで戦うしかなかったですね。
■物見をした松
先頭の木村重成隊は若江村に、長宗我部隊は若江村の南にある久宝寺村に到着します。この時に物見をしたのが写真の場所で碑だけが残っています。豊臣軍は若江から八尾にかけて大きく布陣し、これを発見したのが藤堂高虎隊。
一軍を木村重成隊へ、別軍を長宗我部隊先鋒の吉田内匠と増田盛次へ、本隊は長宗我部隊本隊に向かいます。実は長宗我部家が改易になった時、仲がよかった高虎が多数の長宗我部の家臣を引きとってくれており、藤堂軍には旧臣達が多数いましたが、戦では戦うしかありません。湿地帯での戦いとなり長宗我部軍は強く、散々に藤堂軍を打ち破りますが木村重成が敗死したと連絡があり、引き上げます。