戦国時代、一向宗のシンボルとなったのが蓮如上人で、一向宗と共に建立したのが西証寺(今の顕証寺)。西証寺を中心に堀が掘られ環濠集落(久宝寺寺内町)ができあがります。ちなみに久宝寺と地名は許麻神社の境内にあった久宝寺観音院が由来で明治になった廃仏毀釈で廃寺となりました。
久宝寺寺内町には堀と堀との間に土塁が造られ、町の入口は六ヶ所で、それぞれ木戸門と番所が設けられました。門徒宗が集まり、商業活動が盛んになります。
やがて戦国時代の終焉から検地が行われるようになると寺内町の特権がなくなっていき普通の町になっていきます。ただ堀があったこともあり町割りは昔のままで、通りなどもそのまま残っています。顕証寺の南側には濠と土塁跡が残っています。
■八尾寺内町の誕生
徳川の時代となり本願寺が西と東に別れますが、顕証寺は西側でした。久宝寺寺内町も分裂し東側を支持する派は当時、流れていた大和川(今の長瀬川)の向こう側に慈願寺と共に移り八尾寺内町を作ることになります。
伏線があって信長と本願寺が講和した時、顕証寺は顕如の講和派でしたが、慈願寺は教如の抗戦派だったことが尾を引いていたようです。