空堀商店街近くにあるのが榎木大明神という小さな神社。
榎木大明神の向こうは道が落ち込んでいますが長堀通りが走っています。長堀という名前の通り、大坂城の南総構堀がありました。もう少し東にある南総構堀のさらに南側にあったのが真田丸で大坂城から切り離された出城でした。
万城目学氏の小説「プリンセス・トヨトミ」は、この小さな神社から始まります。風情がある神社で、説明をみると楠正成が植えた木だとあります。近くを熊野街道が通っています。
空堀商店街近くにあるのが榎木大明神という小さな神社。
榎木大明神の向こうは道が落ち込んでいますが長堀通りが走っています。長堀という名前の通り、大坂城の南総構堀がありました。もう少し東にある南総構堀のさらに南側にあったのが真田丸で大坂城から切り離された出城でした。
万城目学氏の小説「プリンセス・トヨトミ」は、この小さな神社から始まります。風情がある神社で、説明をみると楠正成が植えた木だとあります。近くを熊野街道が通っています。
京都府庁の入口にあるのが京都守護職上屋敷跡の碑。
京都の治安は京都所司代、京都町奉行が担当してきましたが幕末になると尊王攘夷派の過激志士が集まり、だんだんと無法地帯になっていきます。なんせ天誅とか言って平気で人殺しをする連中ですので、危ないったらありゃしない。
というわけで幕府は京都所司代・京都町奉行・京都見廻役を傘下におく京都守護職を置きます。貧乏くじをひかされたのが27歳になった会津藩主・松平容保。正規職メンバーでは、だんだん手が足りなくなり、非正規職員の新選組を守護職御預かりとして治安維持にあたらせました。新選組の映画やドラマでは京都中を駆け回っていますが、そんなことはなくエリア毎に担当制になっていて新選組の担当地域は祇園や伏見でした。まあ浪士の逃亡などを理由に管轄破りをすることもあったようです。
会津藩の本陣は金戒光明寺で京都守護職の屋敷があったのが現在の京都府庁の場所。王政復古の大号令によって京都守護職は廃止されます。
応仁の乱で京都は焼け野原となり、戦国時代は現在のような整然とした街ではありませんでした。なんせ自力救済の世界なので上京と下京で、それぞれの街が防衛することになります。街の外周を土塁や堀で囲み、惣構えとしました。上京と下京をつないだ道が室町通です。
京都府警本部の新築工事の際に幅5m、深さ3.5mの堀が検出され上京を守る惣構えの一つでした。戦国時代が終わり、天下統一をはたした秀吉が京都の町を囲む御土居や寺を集中させた寺町通りなど都市改造を行って京都は発展していくことになります。
足利義昭が織田信長に対して挙兵した時に信長は和平交渉しながら幕府や幕臣を支持する商人などが多く住居する、上京を焼き払っています。義昭に圧力をかける狙いでしたが、せっかく復興して街づくりをしたのに、ふんだりけったりです。そうそう当時の本能寺は下京の北西にあり、総構えの外側でした。
秀吉の妙顕寺城へ行く途中にあるのが金ぴかの御金神社。
鳥居が金ぴかになっていて、しかも参拝者が多かったので、ついでに拝んできました。調べてみると個人の屋敷の敷地に金山毘古命を祭神とする邸内社があったのを神社にしたそうです。金山毘古神は古事記の記載で日本書紀では金山彦神になります。鉱山や金属、刃物の神様みたいですねえ。この金属が転じてお金にまつわる神社になったそうです。
金運アップの神様ということで、いろいろなサイトに紹介されていました。でもキャッシュレス社会が進んだら、どうなるんだろう
二条城シリーズの第5弾です
関ヶ原の戦いで勝利した家康は西国の諸大名に二条城造営費用と労務の割り当てを行います。いわゆる天下普請です。
京都は碁盤の目になっていますが、家康が造った二条城はこの碁盤の目から東に3度傾いています。当時、西洋から入ってきたコンパスを使って縄張りを決めています。方位磁石の指す北は地球の自転の影響で動き続けています。家康の時代の京都では真北から東に3度傾いていたようです。当時の技術者も二条城から堀川までの距離が北と南で違っていると認識していましたので、分かっていてやっていました。朝廷に対して徳川は最新技術をもっているというアピールでもありました。
二条城シリーズの第4弾です。
関ケ原の戦いの後、家康が造った二条城ですが、信長の二条新御所、秀吉の妙顕寺城のすぐ西側で武家政権のトップとして二条にこだわりました。足利将軍の二条御所(武衛陣)からの流れを組んでいます。
二条城で家康と豊臣秀頼の会見が開かれ、立派に育った秀頼を見て豊臣家をつぶす決意をしたとも言われています。家光の時代まで二条城は使われていましたが幕末まで、あまり修理されることなく放置されていました。徳川家茂の上洛にあわせて改修が行われ、教科書で有名な徳川慶喜による大政奉還が行われた場所でもあります。
二条城シリーズの第3弾、妙顕寺城です。
秀吉は本拠地を大坂にしましたが、朝廷との交渉で京都に来ざるをえません。宿泊地が問題となり、信長が造った二条城新御所の西側にあった妙顕寺を移転させ、1583年(天正11年)に城を造りました。今も古城町という地名が残っています。信長が本能寺の変で亡くなったことを教訓に堀や天守閣を備えた強固な城としました。通常は朝廷との交渉役だった京都所司代・前田玄以が在城していました。後の五奉行の一人です。
この妙顕寺城が3つ目の二条城です。足利義昭の二条城など二条という土地は、武家政権にとって聖地となっていました。秀吉が公家の最高位である関白となったことで気にしなくてもよくなり、平安時代の大内裏の跡地に聚楽第を作り、この妙顕寺城より移りました。
二条新御所跡です。場所は烏丸御池駅近くで京都国際マンガミュージアムがあり、二条殿町という町名が残っています。信長が足利義昭のために造った二条城ですが、武田信玄が挙兵すると、信長が負けると、まずいと思った足利義昭が挙兵し槇島城の戦いで敗れます。足利義昭は京都を追放され若江城へ退きますが、二条城を守備した三淵藤英(「麒麟がくる」では谷原章介が演じていました)は切腹、二條城は廃城となります。
信長は上洛した時に妙覚寺を使っていましたが、二条晴良から二条邸を譲り受けたため新しく二条城を造ります。主殿は松永久秀の多聞山城から移築しました。信長は新しい二条城を宿泊地に使っていましたが、正親町天皇の皇太子・誠仁親王に献上し、二条城は親王家の御所となります。これで二条新御所となります。
■本能寺の変の舞台
本能寺の変が起きた時、妙覚寺に宿泊していた織田信忠は本能寺が既に落ちたことを知り、防御能力に優れた二条新御所へ移ります。誠仁親王には内裏に移ってもらい、ここで明智軍と戦い、亡くなります。織田信忠と一緒に戦っていたのが弥助です。モザンビーク出身で南蛮人が連れてきたのを信長が譲り受けて侍にした黒人です。弥助は捕縛されましたが明智光秀は日本人ではないからと許し、南蛮寺へ行くことになります。本能寺の変の詳細がイエズス会からヨーロッパに報告されます。
この二条新御所には大きな庭園があり龍躍池(りゅうやくち)と呼ばれる池がありました。これが御池通りの由来となります。
大政奉還の舞台となった現在の二条城ができる前に、いろいろと二条城がありました。まずは足利義昭の二条城です。織田信長が足利義昭を奉じて上洛。義昭は将軍に就任し仮の御所である本圀寺に入ります。信長が岐阜に帰ったすきをついて三好三人衆らが将軍を襲撃します(本圀寺の変)。
「麒麟がくる」では十兵衛(明智光秀)が米蔵の地下にある部屋に義昭を匿っていました。義昭の側近らが必死に奮戦し撃退します。信長もかけつけ足利義昭の無事を確認。城が必要だと認識した信長が造ったのが二条城です。武衛陣の跡地を中心に堀などをもうけた本格的な城を造ります。信長自身が普請総奉行として現地で陣頭指揮をとります。
ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスが初めて織田信長とあったのが、この二条城の工事現場。信長は堀の橋の上で待っていたと著書「日本史」に書いています。よくドラマや映画などで描かれるシーンです。二条城には二重の堀があったとも記載されており、2012年に内堀跡が発見されフロイスの記載通りでした。
「鎌倉殿の13人」で上総広常(佐藤浩市)が源頼朝を「武衛ぶえい)」と呼ぶシーンがあり、頼朝が喜んでいますが、武衛とは天子を守る武官を唐名で呼んだ時の言葉で「佐殿(すけどの)」より尊称になります。ちなみに中納言の唐名は黄門で、中納言の官職をえていた水戸光圀は水戸黄門と呼ばれていました。鎌倉時代の後、室町時代に御所警衛や京内巡視などを担当していた斯波氏が武衛と呼ばれていました。
この斯波氏の邸宅が現在の京都御所のすぐ近くにあり武衛陣と呼ばれていました。今も武衛陣町という地名が残っています。応仁の乱の頃になると武衛陣は数多くの櫓を備え、堀を巡らした城となります。戦国期になると斯波氏は守護だった尾張へと移り、跡地は将軍御所として使われました。「麒麟がくる」では剣豪でもあった将軍・足利義輝を向井理が演じ、三好軍の襲撃を受けて最後を遂げますが、その場所になります。