伊賀上野城

伊賀をおさめていた筒井定次は関ケ原の合戦で東軍側につくのですが、その後、家中で紛争が起こり、家康はこれを理由に筒井定次を改易します。筒井は豊臣恩顧大名で大坂にちかい伊賀を支配していたため、家康側近の藤堂高虎に替えて大坂方に備える意図がありました。

伊賀上野城
伊賀上野城

■藤堂高虎
近江の甲良町にある藤堂村の土豪出身で七回、主を変えたとして有名ですが江戸時代の封建的な考え方で戦国時代は当たり前でした。身長が190cmぐらいと大男で有名でした。慶長13年(1608)8月、徳川家康は、伊予の国をおさめていた藤堂高虎を、伊賀10万石・伊勢10万石、伊予2万石、合わせて22万石を与えて国替えさせました。

■伊賀上野城
家康は大坂包囲網を作るため、丹波篠山城、姫路城を大改造します。高虎も大坂を守る形の筒井古城を大坂に対峙するための城に大改造。西の大坂に向かって高石垣をめぐらしました。五層の天守閣を造る途中に暴風で倒壊してしまいましたが、大坂の陣が終わったため再建されませんでした。現在の天守閣は昭和10年に造られたものになります。藤堂高虎が亡くなったのは江戸の藤堂藩邸で伊賀上野に似ていたので上野という名前をつけ、これが東京の上野になりました。

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