法界寺裏山に法界寺山ノ上付城があります。麓の三木城を攻める付城でしたが、麓の法界寺には三木城城主・別所長治の墓所があります。
別所長治は長篠の戦が行われた天正3年(1575年)には信長に謁見して、天正5年の紀州征伐にも兵を出しています。信長との関係がよかったのですが、天正5年10月に秀吉が播磨平定で送り込まれてくると、最初は協力していましたが、天正6年(1578年)2月に離反して三木城に立て籠ります。離反した理由はよく分かっておらず、秀吉の上目線に嫌気がさした、毛利氏経由で足利義昭から工作を受けたなど、いろいろと説がありますが別所氏以外の播磨衆が反信長だったので連携したのでしょう。
織田軍は三木城の周りに付城と城間をつなぐ土塁を築き上げ、兵糧攻めを行います。「三木の干殺し」と呼ばれ、三木城は2年間、持ちこたえましたが最後は城を受け渡し、別所長治は自害します。享年は23歳と26歳説があり、いずれにしても若武者でした。