大洞弁財天の一番奥にあるのが奥之院(宇賀神社)で、この裏手から佐和山城へのハイキングコースになっています。ハイキングコースを大洞山まで登ると佐和山城への案内版が出ています。この方向と反対方向に向かい尾根道をひたすら歩いていくと物生山があります。ここにあるのが物生山(むしやま)城です。
織田信長が裏切られた浅井長政を攻めていた時、佐和山城には浅井方の磯野員昌が城主として入っていました。織田信長は佐和山城を攻めるために東西南北に4つの付城を造ります。北に作られた付城が物生山城です。1571年(元亀2年)2月に磯野員昌は降伏し、開城。佐和山城には丹羽長秀が入ります。
物生山城が見つかったのが割と最近で、昭和61年(1986)に行われた滋賀県中世城郭分布調査で北の付城と判明します。城の虎口は土橋になっており、郭が構成されていましたが、それよりもすごいのは佐和山城と物生山城のちょうど間ぐらいにある大きな堀切です。織田方、磯野方のいずれが造ったのか分かりませんが、なかなか見事です。