新保館跡

新保館跡

近江中庄駅を降りてマキノ駅の方へ歩いていくと途中に天満宮があり、ここが新保館跡。土塁でもないかと神社の周りを探しましたが遺構はありませんでした。

足利尊氏の側近が饗庭の地をもらって饗庭氏と名乗りました。一帯には新保氏、田屋氏が地侍として勢力をもっており、この三氏が海津衆と呼ばれています。マキノ町新保は平安時代に新しく荘園として切り開かれた土地で新保には「新しく開墾した土地」という意味があります。新保氏はこのマキノ町新保を本貫としたようです。このあたりは湖西線から琵琶湖にむかって田んぼが規則正しく並んでいます。

■光秀が海から攻撃

海津は琵琶湖の北にあり、ここで船から荷をあげて疋田経由で日本海と結んでいました。古代から物流の拠点になっていたこともあり、戦国時代は六角氏、京極氏、浅井氏が取り合い、最終的に海津衆は浅井氏の支配下になります。信長が浅井氏と対立した時、浅井氏の経済基盤を壊すために明智光秀に命じて船から焼き討ち攻撃をしています。

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