稲田騒動(淡路島が兵庫県になったわけ)

御城番屋敷

淡路島といえばパソナではなく稲田騒動が有名です。明治3年(庚午の年)に起きたので庚午事変とも呼ばれています。

■全員解雇
昔、日本史で習いましたが明治2年に版籍奉還が行われます。藩が、所有していた土地【版】と人民【籍】を朝廷に返還させました。地方分権から中央集権国家にする流れでもありますし、古代のように大王が土地と民を支配する世の中に戻すともいえます。藩主はそのまま県知事に移行しますので、まだソフトランディングでした。

続けて禄制改革が行われます。武士への給与支払いを辞めて、その代わり公債を与えるので自分たちで何とかしろということですね。今でいえば県庁職員で安泰だと思っていたら、いきなり退職金を出すかわりに全員、失業ということです。公債をもとに慣れない商売に手を出して失敗する「武士の商法」が続出しました。

■淡路独立運動
稲田家はもともと蜂須賀小六の客分で、蜂須賀家の阿波入府にあわせて筆頭家老として淡路に入ります。家臣の意識は蜂須賀家と同格でしたが時代が過ぎるにあわせて蜂須賀家が主という振る舞いに変わっていきます。幕末、徳島藩は佐幕派なのに稲田家は尊王派という確執もあり、引き金となったのが禄制改革です。

徳島藩家臣は士族ですが、稲田家は卒族(下級武士扱い)となり、納得いかない稲田家では淡路を徳島藩から独立させる動きになります。徳島藩の一部過激派が淡路に乗り込んで戦いとなります。これが稲田騒動です。この騒動によって淡路は本来の徳島県ではなく、兵庫県に属することになり本日に至っています。

■松阪の御城番屋敷もお家騒動から
江戸時代、松阪は紀州藩の土地で、幕末に騒動が起きました。紀伊田辺に住んでいた紀州藩主直属の家臣に対して直臣(藩主直属)から陪臣(藩主の家来の家臣)になるように命じられます。本社のエリート街道を歩いていたのが、子会社へ転籍しろと命じられたのと同じですので抗議しましたがダメで、武士の誇りを選んで浪人しました。

浪人生活は6年にもなりましたが、あきらめずに伝手を頼って徳川慶喜などに嘆願。ようやく復帰がかない、新しい赴任先となったのが松阪城の御城番。騒動を起こしたので、紀州から離れたところへ行けということでしょう。ところが今度は明治維新が起きてしまいました。苦労して勝ち取った武家屋敷を守っていくため合資会社苗秀社を設立。皆で団結して時代を乗り切り、苗秀社は今も続いています。

幕末から明治にかけて、武士は失業というハードランディングを乗り越えるのに必死でした。

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