立石城

立石城

三田・観世寺の奥にある神戸三田メモリアルパークから山道が存在するという事前情報を元に立石城へ。山道を進んでも、城跡らしきものはなくスマホのGPSで確認すると、隣の丘のピークのようです。20メートルほど谷へ降りて、崖を登り返すと郭跡がありました。南北二郭の城で、郭の間は空堀になっていて土橋が架かっていました。土塁も残っていて、郭も広かったです。まあ木立だらけで進めはしますが、全体は見通せません。

「三田市史」によると永禄7年(1564年)に山崎左馬介恒政によって築かれたとありますが、よく分かっていません。三田に拠点を構えていた荒木氏が毛利方につき別所氏などと組んで信長と争っていたため、三田は天正6年(1578)に秀吉によって陣城がいくつも作られ包囲戦が行われました。ですので立石城も陣城の一つかもしれません。立石城の近くにあった蒲公英(タンポポ)城は住宅建築で消滅してしまいました。

七里の渡し

七里の渡し

新幹線で名古屋が近づくと揖斐川、木曽川、長良川という木曽三川を渡ります。けっこうな川幅があるため昔は越えるのが大変でした。東海道の宮宿(熱田神宮)から桑名宿までが海を渡るルートになっていて約7里(27㎞)あったので七里の渡しと言われています。

バイパスとして佐屋街道があり宮宿から佐屋宿まで歩いて、佐屋宿から桑名宿まで三里の渡しがありました。もしくは宮宿から美濃路に入り中山道・垂井宿にすすみます。川幅は狭くなりますが、それぞれ渡船を使う必要がありました。

七里の渡しは4時間~6時間の船旅で1711年の船賃は一人45文(1,500円ぐらい)でした。桑名の船着き場は桑名城のすぐ横で、城の横に東海道がありました。桑名は伊勢国の入口でしたので一の鳥居が建っています。伊勢神宮の式年遷宮にあわせて内宮の宇治橋外側の鳥居が移築されています。歌川広重の東海道53次の絵で有名な場所です。

桑名城

本田忠勝

桑名で仕事だったので、ついでに桑名城跡(九華公園)へ

■桑名城
七里の渡しを船で渡ると桑名到着時に、まず見える海城でした。建物や石垣などは残っていませんが、郭跡が残っていて堀跡などから海城の雰囲気を味えます。城下町には総構えの堀跡が残っています。同じ海城だった鳥羽城に似ています。

■本田忠勝
もともとは伊藤氏が築いた東城がありましたが、織田信長の伊勢侵攻で廃城になります。秀吉時代に一柳直盛が城として整備し伊勢神戸城の天守を移します。神戸櫓跡として基台だけ今も残っています。徳川時代、豊臣包囲網として城主になったのが本多忠勝です。「どうする家康」では山田裕貴が演じていました。蜻蛉切という大きな槍を振り回し、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負いませんでした。

本田忠勝には侍とは敵の首をとることが手柄ではない、武運つたなく主君が討死にする時に一緒に討死してやるのが侍というものだという言葉が残っています。

■五稜郭まで戦った桑名藩士
本田の後は松平氏が藩主となりますが、幕末の時の藩主が松平定敬で、会津藩・松平容保の実弟です。一橋慶喜らと幕府を支えましたので一会桑政権と呼ばれました。鳥羽伏見の戦いの後、慶喜、松平容保と一緒に江戸に向かいます。

大変だったのは殿様がいなくなった桑名藩。桑名藩は新政府軍の進軍路でもあり降伏しましたが、松平定敬は潔しとせず、自ら上野彰義隊、会津戦、越後戦などを戦い、最後は五稜郭で戦っています。最後は五稜郭を脱出して上海へ逃れ、やがて日本へ戻り、天寿を全うしています。五稜郭の頃には土方歳三と一緒にたくさんの桑名藩士が戦っており、これが桑名藩・新撰組です。

■桑名藩士・立見尚文
桑名藩士に立見尚文がおり、最後は庄内藩とともに戦い降伏します。西南戦争が起こった時に、苦戦していた大久保利通が、そうだ我々を苦しめた桑名藩の立見がいるではないかと思い出し、三重県庁に出仕していた立見を呼び出し、軍功を立てています。後に陸軍大将にまでなっています。

恵方巻

恵方巻

明日は立春です。冬から春に変わるということで本日は季節を分ける節分になっています。妙なことに節分に恵方巻なるものを食べる風習になっています。今年の恵方である東北東に向かって願いごとをしながら、黙々と最後まで食べます。イワシなら分かりますが、なんで巻寿司なんでしょうかねえ。

もともとは船場あたりの地味な風習だったようですが、大阪の海苔組合が海苔の消費を増やそうと幸運巻寿司なるチラシを配るようになり、一部で知られるようになります。大阪出身のコンビニオーナーがこれに目をつけて販売したところ、好評だったため全国のコンビニに拡がります。

ということで昔からある風習ではなく海苔組会のマーケティング戦略の成果です。明日ぐらい売れ残った巻き寿司を安く買ってこようかなあ。