草津川跡地公園のすぐ近くにあるのが追分の道標。ここで東海道と中山道に分岐し、東海道は江戸の日本橋と京都の三条大橋を結ぶ53次でした。のちに大坂の高麗橋まで延びて57次になります。中山道も東海道と同じで日本橋と三条大橋を結びますが内陸を通り69次ありました。東海道は大井川の渡しなどが雨で通れなくなるので、道は険しいですが時間がよめる中山道がよく使われました。皇女和宮の江戸下向でも中山道が使われます。
■草津をおさえた信長
足利義昭を奉じて上洛した織田信長が副将軍なんかいらないと断り、代わりに堺、大津、草津を直轄地としてもらっています。武田信玄は鉄砲に着目しており、数を揃えていましたが問題だったのは弾薬。信長が堺を抑えてしまったので、火薬の原料となる硝石が手に入りません。海運拠点の大津、陸運拠点の草津を抑えてしまい琵琶湖を中心に東国への経済封鎖が行われました。
武田信玄が三方ヶ原の戦いで家康を破り、西に軍をすすめますが、信長の経済封鎖でこのままではジリ貧になると考えたという説もあります。