肥田城 水攻めの堤跡

有名な水攻めといえば秀吉による備中松山城、「のぼうの城」の忍城がありますが、他にも紀伊の太田城、近江では肥田城が水攻めになっています。肥田城は1503(文亀3)年に六角氏の命をうけて高野瀬隆重が築城しました。

ところが隆重の息子は浅井氏に従うようになり六角氏と対立します。六角氏は1559(永禄2)年に肥田城の周りに堤を築き、宇曽川や愛知川から水を引き込んで水攻めします。ところが水没間際に2ケ所が決壊し水攻めは失敗します。

■水攻めの堤跡
高野瀬氏のあとは蜂屋頼隆が城主となり1583年頃に、長谷川秀一が城主になっていますが、その後の記録がないので、この頃に廃城になったようです。彦根藩が新田開発したため肥田城は土塁と堀の一部しか残っていません。

肥田城

六角氏が水攻めで造った堤の一部が田んぼに残っているという情報を見つけて行ってきました。田んぼの一部に2メートルほどの土塁が残っていました。この土塁がそのまま農道になっていて、条里制でまっすぐな田んぼに変な曲線の農道になっていました。水攻めの堤跡が残っているんですね。

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