山崎の戦い 天正10年(1582年)6月13日

山崎宿

西国街道に山崎宿があり、摂津と山城の境に位置しています。写真付近にあったのが山崎西黒門跡で宿場の西門でした。山崎で有名なのが秀吉と光秀が戦った山崎の戦いです。山崎は隘路になっており新幹線、名神、阪急、JRが狭い場所に集中しています。光秀としては山崎宿で戦うのが有利なのですが、光秀は山崎では戦わないという禁制を山崎に発行していました。油座などで経済が発展していた山崎の経済力を温存したかったようです。ということで山崎を抜けた小畑川が戦場になりました。光秀は小畑川に布陣し、長篠の合戦を再現するつもりだったという説もあります。

■中国大返し
山崎の戦いは秀吉が中国大返しをして勝ったという雰囲気ですが、実際に戦ったのは摂津の高山右近、中川清秀、池田恒興です。もっとも「信長様は生きている」というフェークニュースを秀吉がばらまき、摂津衆をつなぎとめたのが大きかったです。諸説ありますが、中川清秀が山上、池田恒興が淀川沿いを進軍。高山右近軍が山崎にいたところ偶然、光秀軍と遭遇して戦になった模様です。

最初は互角でしたが秀吉軍が到着したため光秀軍は総崩れになった模様です。また秀吉が毛利と和睦した時に黒田官兵衛が小早川隆景から毛利の旗を20本借りています。尼崎まで戻った時に秀吉軍の先頭に旗をたてることで、毛利も秀吉に味方したと思わせるなど、勝つためになりふり構わなかった秀吉が一枚上手でした。

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