今城塚古墳から西国街道を西に進んでいくと宮内庁が継体天皇陵と比定している太田茶臼山古墳に着きます。ここも街道のすぐ横でランドマークになっていたんですね。出土した埴輪から継体天皇の時代より前で、被葬者はわかっていませんが応神天皇の孫である意富富杼王(おおほどのおおきみ 継体天皇の曽祖父)という説があります。ここは天皇陵として宮内庁が管理しているので中に入れません。
古市に誉田御廟山古墳(応神天皇陵)があり、太田茶臼山古墳より大きいのですが、形がまったく一緒で同じ設計図から作られています。意富富杼は越前や近江の息長氏、坂田氏などの祖となります。息長氏は近江国坂田郡が本拠地で、有名なのが神功皇后(おきながたらしひめのみこと)。継体天皇はこの息長氏系で、応神天皇の5世の孫です。今でも5代前といわれると分からない家が多いでしょう。ですので皇統の交代があったという説もありますが、少なくとも継体天皇の時代から現在まで皇統が続いています。
任那割譲問題など外交上の諸問題が起きていた時期で、越前、近江といった物流を抑え、力があった継体天皇をピンチヒッターで担ぎ出したんでしょう。