西国街道をゆく(生田神社)

生田神社

なくなったサンパル横の西国街道を行くとJR三宮駅になっていて街道が途切れます。昔は生田神社まで街道が続き、神社で南に方向を変えていて西宮神社と同じ構図でした。生田神社境内に生田の森があり、今は面影がありませんが枕草子に「森は大あらきの森、信太の森、生田の森」と記されるほどの森でした。

■源平合戦の舞台
京都は守りにくい土地のため平清盛は福原(神戸)遷都を行います。福原は南の瀬戸内海と北の六甲山脈で守られ、東の生田の森と西の一乗谷をしっかり守れば天然の要塞となりました。平家の都落ちでは生田から一乗谷につながる膨大な要害を作り上げ、制海権もおさえていました。結局、義経が鵯越から攻めてきますが、最近の学説では逆落としをしたのは地元の多田行綱で、義経は一乗谷で戦っていたようです。

■だまし討ちだった
どうも後白河法皇による騙し討ちだったようです。和平を勧告し、平家には武装解除して源平に戦争しないように申し伝えていました。そこへ義経が攻め込んできたので、完全な騙し討ちだったというのが実態のようです。

■神戸 地名の由来
生田神社に奉仕する44戸の神戸(かんべ)。神戸とは神社に税金をおさめるための土地のことです。この「カンベ(神戸)」が中世に「コンべ(紺戸)」になり近世に「コウベ」になったようです。

山崎からひたすら歩いた西国街道ですが神戸までたどりついたので西へ向かうのは終了。

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