蒲郡駅から2駅行くと三ヶ根駅があり、普通しか止まりません。なんでこんな普通しか止まらない駅で降りたかというと、ここが家忠日記の中心地で深溝城がありました。ということで碑跡を見てきました。
■深溝城の築城
鎌倉時代末から南北朝時代にかけて深溝を支配していたのが三河大庭氏です。御家人だった大庭氏と関係があるかははっきりしません。この三河大庭氏が築城したのが深溝城で近くを東海道の脇街道である平坂街道が通っていました。中世になると松平氏が進出し大庭氏と戦になり、勝利し深溝松平家が誕生します。
■家忠日記
角川文庫から「家康家臣の戦と日常」(盛本昌弘)という本が出ていて、松平家忠が17年間にわたって残した日記があります。城の普請に駆り出されたり、連歌作りで交流したりして、京都へ行った時に里村招巴と対面しています。上之郷の鵜殿氏はこの頃は家康家臣となっており家忠の母は鵜殿氏になります。親戚なので家康が立ち寄ったりもしています。武田勝頼を倒した信長は三河を通って帰陣することになります。家忠はそのための普請などを行っていますが信長の行列を見たようで信長が黒人の弥介を連れているのを目撃しています。松平家忠は関ケ原の合戦の前哨戦となった伏見城の戦いで討ち死にします。
■板倉勝重
江戸時代になると板倉勝重の次男の知行地となりますが、もともと深溝松平家の所領の一つ小美村で生まれたのが板倉勝重。板倉家は深溝松平家の家臣でした。板倉勝重は出家していましたが家督を継いだ弟が戦死したため、家康の直臣となり京都所司代などを歴任します。