長篠城を攻撃中の武田勝頼に家康・信長連合軍が後詰に出てきた知らせが届きます。武田勝頼は迎撃のために設楽ヶ原に向かい途中の高台を本陣にしました。今は木々で見通せませんが、当時はよく戦場が見えた場所だったのでしょう。酒井忠次による鳶ケ巣山砦への奇襲が功をそうしたと伝えられていますが、奇襲攻撃より3時間も前から武田軍の攻撃がはじまっていたようです。武田軍は奇襲攻撃に気づいていた公算が高いのですが家康には勝てると計算したのでしょう。
武田勝頼は信玄の四男で信玄が滅ぼした諏訪氏を継いだため諏訪四郎勝頼と呼ばれていました。ところが長男の武田義信が廃嫡となり、次男は盲目で出家し、三男は早くに亡くなっているため四男の勝頼が武田家を継ぐことになります。もともと武田家の跡取りではない点が本人にとっても負い目だったのでしょう。信玄が落とすことができなかった高天神城を落とすなど実績を出しました。勝頼は諏訪家の跡取りだったはずが、思いがけず信玄の後釜となり、苦労しながらも版図を拡げた優秀な武将で、信長も高く評価していました。
■信長はしぶしぶ長篠へ
信長が本願寺に味方する河内を攻めるために出陣したのにあわせ本願寺を支援するため武田勝頼が三河に進軍します。岡崎奉行だった大岡弥四郎が武田勝頼に内通しており岡崎に向けて出陣しますが途中で謀反が発覚し、岡崎攻めを中止にします。方向転換した後、野田城、吉田城を攻めて、ついでに長篠城を攻めますが、思いのほか抵抗されます。
高天神城の戦いで家康から援軍を求められた信長は結局、間に合いませんでした。家康は援軍が来ないと武田に寝返って尾張を攻めると使者に言って信長を促した話が残っています。同盟関係が瓦解するところまで追い込まれた信長はしぶしぶ出陣します。信長は兵を失う可能性を減らすために陣地を築いて馬防柵をたて負けぬ戦をします。