設楽ヶ原

設楽ヶ原

徳川家康・織田信長連合軍と武田勝頼軍が戦った設楽ヶ原です。現地へ行ってみたら思った以上に狭い場所で両軍が対峙した連呉川も小さな川でした。互いがよく見えたでしょう。観光用に馬防柵が作られていました。

信長の鉄砲で有名な戦いですが、鉄砲の装備率を見ると武田勝頼と信長との差はあまり、ありませんでした。問題は弾で信長、家康軍はタイから輸入した鉛を使っていました。武田領に金山はありましたが鉛山はなく、武田軍は最初に鉄砲を討った後に弾が少なくなるため突撃したようです。

■信長の経済封鎖
武田側の長峰砦跡から見つかった弾は中国からの渡来銭と成分が同じで銅銭を材料にしていました、また神社に賽銭の中の悪銭を上納させて弾にしようと命じていました。信長側はは堺で硝石をおさえ伊勢商人にも東国に物資を流してはいけないと圧力をかけていました。また大津、草津を抑えていたので琵琶湖を中心に東国への経済封鎖が行われていました。武田信玄が三方ケ原の戦いなど西に軍をすすめますが、信長の経済封鎖でこのままではジリ貧になると起こした行動ではという説もあります。

■長篠の戦いは銅山の取り合い
武田信玄と家康で奥三河の争奪戦が行われましたが理由の一つが銅山です。長篠城ちかくの睦平鉛山の銅で作られた弾が長篠古戦場から出ています。長篠がある奥三河には睦平鉛山があり、徳川側の弾の原料である鉛に使われていました。長篠の戦は、この鉱山の取り合いでもありました。経済戦争の側面があったんですね。

■しかみ像
信長は本願寺攻めのために兵力を温存したいため馬防柵を構築し陣城を築きます。また柵から出て戦うなという指令を出しますが、当事者の家康側は馬防柵の外へ出て戦いました。有名な家康の「しかみ像」がありますが、三方ヶ原の負け戦を忘れないために書かせたと言われていますが書かせたのは尾張藩祖の徳川義直のようで長篠の戦の時のようです。徳川美術館が出した図録の解説で三方ヶ原の戦いと記載したため広まったようです。

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