隠岐の島(4) 後鳥羽上皇行在所

後鳥羽上皇行在所

「鎌倉殿の13人」で尾上松也が演じていたのが後鳥羽上皇です。承久の乱に敗れ隠岐の島に配流となりました。島前の海士町(中ノ島)にあった源福寺が行在所になりますが、今は敷地跡しかありません。近くに上皇を祀った隠岐神社があります。ここで19年間を過ごし亡くなり火葬されました。

■承久の乱とは
実朝が暗殺され北条氏が政権を牛耳るようになり頭にきた後鳥羽上皇は城南寺(鳥羽)で流鏑馬を行うという名目で1700ほどの西国武士を集めます。北条義時追討の院宣が出され、義時は朝敵になってしまい頭をかかえこんでしまいます。この時、北条政子が「頼朝公のご恩を忘れるな」と大演説をぶち、東国武士は迎え撃つことで一致しますが、大江広元が迎撃論を抑え込んで、都へ向けて出撃させます。ちなみに大江氏の子孫が長州毛利家です。

後鳥羽上皇の意図は倒幕ではなく、北条から三浦にすげかえることを狙っていたという説もあります。後鳥羽上皇は敗北し戦争放棄を宣言します。古代から「武」で権力を維持してきた天皇が軍事に口を出さないと宣言し、武士の時代がはじまることになります。

■鎌倉幕府が全国組織に
敗北した西国の武士や貴族の荘園に東国武士が入り鎌倉幕府は地方政権から全国政権になります。ただ土地本位制だった東国武士が貨幣経済に巻き込まれてしまうことになります。

■小倉百人一首とは
藤原定家の私撰和歌集が小倉百人一首。正月のカルタ遊びでおなじみですが、どうも後鳥羽院の鎮魂のためにつくられた和歌集のようです。歌い手の多くが政争で負け零落した人物が多く、また藤原定家は後鳥羽上皇と近かったのですが、承久の乱が起きた時に裏切っています。これが百人一首を作る動機の一つになっているようです。

■徳川家康の遠大な根回し?
吾妻鑑などをよく読んでいた家康は朝敵になると、えらいことになると思ったのでしょう。天海に命じて寛永寺のトップに京都から皇族を迎える制度を作りました。反徳川勢力が京都の天皇を擁しても、幕府が朝敵にならないための仕掛けでした。実際、戊辰戦争では寛永寺にいた輪王寺宮能久親王が奥羽越列藩同盟の盟主になっています。

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