高宮城

彦根に高宮という場所があります。古代には犬上郡十郷の1つ高宮郷があり、東山道が走っていました。中世から江戸時代にかけては、ほぼ同じルートで中山道となり高宮宿として栄えました。この交通の要所を抑えていたのが高宮城です。

高宮城
高宮城

1416年の上杉禅秀の乱に幕府方として戦った六角信高が将軍足利義持から勲功として高宮など6万貫を与えられて、高宮信高となります。もともと六角氏頼の三男でしたので六角氏側でしたが、京極氏側に寝返ったようで永禄2年(1559)、高宮城が六角氏に攻められて落城します。京極氏側でしたので浅井長政の配下にもなっていました。

■織田信長と浅井長政が会見した城
足利義昭を奉じて上洛する前、永禄10年 (1567)に織田信長は高宮城で浅井長政と会見しています。その後もたびたび信長は宿舎として使っていたようです。信長と浅井が手切れとなると高宮氏は浅井側として戦い小谷城で戦死しました。落ち延びた一族は高宮城に戻って、城に火を放ち歴史からは消えてしまいました。

その後はずっと空地だったようで、やがて高宮小学校や高宮幼稚園の校舎が建てられ、今は碑だけが残っています。発掘調査で高宮城時代の井戸などが見つかっています。

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