
藤原京から平城京を結ぶ下ツ道、中ツ道、上ツ道があり、一番東側にある南北道が上ツ道です。さらに東側に日本最古の道である山の辺の道があります。3つの道の間隔は2118メートルで当時使われていた高麗尺でちょうど6000尺(1000歩)です。上ツ道では途中に箸墓古墳があり迂回しています。迂回するのは分かっていましたが1000歩にこだわったようです。
箸墓は最古級の前方後円墳で邪馬台国説がある纏向遺跡にあるので卑弥呼の墓ではないのかと言われています。神聖(女王)と執政(男王)の祭政分離体制だったようで桜井茶臼山古墳が卑弥呼時代の男王の墓ではという説もあります。ちなみに卑弥呼の後を継いだ台与の墓が西殿塚ではという説があります。
■箸墓の戦い
壬申の乱では近江朝廷軍を大海人皇子軍が、箸墓一帯で迎え撃ち勝利をおさめました。迎え撃ったのは大神高市麻呂と置始連菟です。この大神高市麻呂ですが気骨があった人物のようで持統天皇の時代、伊勢行幸しようとした天皇に対して田植えの時期の行幸は民に迷惑を与えると諫言しましたが、聞き入れられず職を辞しました。
大神高市麻呂ですが住んでいた邸宅と勤務地が両方とも発掘で確かめられて分かっているという珍しい人物です。邸宅は現在の三輪神社の摂社でした、勤務地が左京職で、今は奈良文化財研究所都城発掘調査部のある所になります。