普賢寺谷の小野垣内遺跡の対面にあるのが大西館。3つの郭をもつ城でしたが開発でほとんど削平され、郭の一部だけが残っていました。戦国時代の城としては珍しく城主が分かる城だったのにもったいない。
1437年に普賢寺が炎上した後、大西志摩守が普賢寺再興のために全国を勧請したという記録が残っています。普賢寺に一番近いところにもあり、このあたりの盟主だったようです。織田信長が侵攻してきた時代は反信長派だったようで織田信長の命令で切腹させられています。足利義昭と信長が仲違いし、足利義昭が宇治の槙島城で挙兵しましたが敗れて河内へ逃げる時に普賢寺谷を通っています。大西備前守敏元は、この時に足利義昭に付き従ったようで河内若江城で討死にしています。