
8月5日(土) ・6日(日)に中小企業診断士1次試験が行われます。泣いても笑っても残り2週間です。
というわけでLEC梅田で経営情報システムの総まとめ講座です。いまさら、新しいことを覚えても時期的に間に合わないので、確実に点数が取れるように知識の定着を図ります。
経営情報システムは2年続けて難問だらけで科目合格率がすさまじい状況でしたから、さすがに今年はちょっとは簡単になるでしょう。半分、願望です(笑)。
朝から夕方まで6時間ひたすらしゃべりましたので、ホワイティ梅田で少し水分補給して帰ってきました。ああ、いい気分!
投稿者: mizutani
信長が焼いた枚岡城

全国に一宮があります。一宮とは、その地域で最も社格の高いとされる神社で大和国なら三輪神社、摂津国なら住吉神社になります。河内国の一宮が枚岡神社で、ウチの近くなので散歩コースにしています。枚岡神社は生駒山の山裾にあり、高低差がかなりありますので城には最適な土地だなと思っていたら城があったようです。
阪神高速東大阪線、東の端が水走出入口で、そのまま走ると第二阪奈になります。この地名の元になったのが水走氏。今は陸地ですが昔は大和川が流れ、古代河内湖の残りもあり水運が発達したところでした。
■信長が焼いた枚岡城
水走氏は河内国、大和国の一部(現在の東大阪市、大東市、八尾市、生駒市など)を支配する豪族で武士団でした。中臣氏と同流の平岡連の末裔と言われています。枚岡神社は中臣氏祖神となる天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祀っており、代々、水走氏が枚岡神社の神職をつとめています。
水走系図に枚岡神社宮司だった水走左近有忠は信長の怒りをかい、信長は大軍をさしむけて”枚岡城”や有忠の屋敷を焼き、有忠は大和の筒井に去ったという記載があります。館城だと思いますが枚岡城があったんですねえ。
蓮(ロータス)と悟り

近くのお寺の庭に蓮が咲いていました。蓮といえばインド原産の花。
仏教では極楽往生をとげると蓮華の花の上に生まれ変わることから、一蓮托生という言葉があります。転じて、結果はどうなろうとも、行動や運命をともにすることを指すようになります。蓮は泥水の中から立ち上がり花を咲かすことから”悟り”の象徴にもなっています。
■ロータス1-2-3
さて蓮を英語ではロータスと言います。ロータスというとスポーツカーの名前として有名ですが、もう一つ有名なのが表計算ソフト。世界最初の表計算ソフト”ビジカルク”に対応するためマイクロソフトからマルチプランという表計算ソフトが1982年に発売されます。マルチプランはIBM-PCで動きましたので、よく売れましたが、このマルチプランよりも使いやすかったのが、1983年に発売されたロータス1-2-3(ワンツースリー)です。
ロータス1-2-3を作ったのはミッチー・ケイパーという人物。1970年代、青春時代を過ごしましたのでヒッピー文化をもろに受けています。アップルのジョブズも創業前にインドを放浪してますし、N朝ドラ「ひよっこ」でビートルズの武道館公演騒ぎが描かれていましたがビートルズも多大な影響をインドで受けています。もちろんミッチー・ケイパーも影響を受けていて超越的瞑想(TM)の教師までやっています。というわけでロータスという名前は仏教やヒンズー教の象徴となっている蓮から命名しています。
など、当時のお話を知りたい方は『バグは本当に虫だった-なぜか勇気が湧いてくるパソコン・ネット「100年の夢」ヒストリー91話』をぜひ、どうぞ!
→ バグは本当に虫だった
断捨離しましょう!(ジョーシス:情シス)

ジョーシス(情シス)というサイトに2016年1月から連載してきましたが、いよいよ最終記事になります。「断捨離しましょう」という記事がアップされていますので、ぜひご覧ください。
内容は最近、よく発生しているFacebookなどでのアカウントの乗っ取りです。知り合いに言われて始めたけれど、いつのまにかやめてしまい、ほったらかしになっているアカウントなどはありませんか。例えば昔、よくやったMixiとか。使わなくなったアカウントは自分でしっかり削除して、少しでもリスクを下げておきましょう。
→ 断捨離しましょう
堺東駅

南海電車の急行などに乗ると難波の次に止まるのが星野リゾート・ホテルで話題の新今宮駅。次が天下茶屋駅で天下茶屋を出たところで南海本線(和歌山へ)と南海高野線(高野山へ)に分かれます。南海高野線を天下茶屋駅から10分ほど走って着くのが堺東駅です。
堺は大坂の陣では最初は豊臣方、冬の陣前には徳川方に味方しました。夏の陣となり徳川方である和歌山の浅野長晟を攻めるために大坂城を出撃した大野治胤(大野治長の弟)は徳川方に味方した堺を焼き、焦土にしてしまいます。真田信繁率いる真田軍が家康本陣に突っ込む時、徳川方を動揺させるため「浅野殿が裏切られた」と叫んだ浅野殿とは浅野長晟のことです。
大坂の陣が終わり、復興事業がはじまります。元和の町割が行われ大小路は東西方向(横筋)の基幹道路として整備され、堺の市街地の東端にある土居川には大小路橋がかけられます。現在、川は埋め立てられましたが大小路という地名は残っています。ここが竹内街道や西高野街道と接続する堺の東玄関となります。堺東駅はもともと大小路駅という名前でしたが、すぐ堺東駅となりました。大小路駅の方が由緒があってよかったのに!
方違神社

堺東駅から少し歩いたところにあるのが方違(ほうちがい)神社。”かたたがえ”や〝かたちがい”とよく間違えられますが、正式には”ほうちがい”です。堺東駅から少し歩いたところにあるのが方違(ほうちがい)神社。”かたたがえ”や〝かたちがい”とよく間違えられますが、正式には”ほうちがい”です。
神社のある場所は三国ヶ丘といって摂津、河内、和泉の境でした。ですので堺市の市章は、三国から市の字を三つ組み合わせた形になっています。方違神社がある三国ヶ丘は摂津国から見ると南にあり、和泉国から見ると北にあります。これで南北が相殺できます。東西も相殺できるので、ここは方角がない土地となります。
陰陽道では方違え(かたちがえ)があり、方位が悪いと前夜に別の方角に行って泊まり、方角を変えてから出発することで凶方を避けました。方違神社なら一か所で三国を旅したことになり、おのずと方違えしたことになります。ということで古くから信仰を集めていました。
方違神社は、けっこう古い時代で応神天皇の時代に祀られたとあります。応神天皇は実在した最初の天皇ではないかと言われ、母は神功皇后です。方違神社の横には応神天皇の孫にあたる反正天皇陵があります。越前から出て新王朝を建てたのではないかといわれる継体天皇は応神天皇5世の子孫となります。
ファイティング・コンサルタンツ研究会
御城番屋敷(松坂)

松坂城に建物は残っていませんが、搦手には御城番屋敷が江戸時代のまま残っていて、現在も人が住んでいます。松坂城は蒲生氏郷が築きましたが、最終的には紀州藩が支配していました。ここを舞台に起きたのが紀州藩田辺詰与力騒動です。
■辞職して浪人に
発端は徳川頼宣が紀州に赴任した時、徳川家康に仕えた横須賀党という武士団が徳川頼宣につけられて紀伊に赴任しました。赴任場所は紀伊田辺で、田辺詰与力となり田辺城主である安藤家から扶持をもらうことになります。
横須賀党の面々は出向扱いで、紀州藩直属の直臣だと思っていましたが、扶持を出している安藤家は自らの家臣と思っています。これが200年にわたる諍いとなります。幕末に安藤家がいよいよ締め付けしてきたので、与力衆20名は集団で辞職し、浪人してしまいます。
■明治維新ですべてチャラ
一橋慶喜を巻き込むなど、紀州藩への復帰運動を行い、6年かかりましたが紀州藩直臣となり松坂の御城番になることができました。そして住んだのが新しく建てられた御城番屋敷です。職場復帰できたので、これで万々歳なんですが、しばらくして起きたのが明治維新。今度は士族全体が失職になってしまいました。士族授産で得た資産を元手に合資会社苗秀社を作り、明治の荒波を乗り切っていきます。現在も苗秀社は存続しています。
蒲生氏郷が築いた松坂城

昨日は朝から松坂城へ行っておりました。松坂には海岸沿いに松ヶ島城があり、北畠家を乗っ取った織田信雄が築きました。やがて近江・日野の領主だった蒲生氏郷が伊勢を収めることになり松ヶ島城に入ります。
蒲生氏郷は織田信長に若い頃から気にいられ、信長の娘と結婚し婿になっています。本能寺の変の時は安土城にいた信長の家族を守りながら日野城に避難させています。
松坂に入った蒲生氏郷は松ヶ島城では城下町の発展がないと思い、現在の松坂城に築城して移転します。松坂城内に櫓や門などの建造物はありませんが、石垣や郭がそのまま残っていて、いくつもある枡形虎口が見事ですね。
郷里の日野から商人を連れてきて、これがカリヨンプラザがある日野町になっています。そういえば昔、蒲生氏郷の伊勢への国替えをテーマにAll Aboutで記事を書いておりました。むりやりペアプログラミン具と結び付けています。(笑)
→ 蒲生氏郷の国替え 秘策ペアプログラミング
松坂の一夜

7月10日(月)に松阪市産業支援センター開設にあわせ、三重県よろず支援拠点まつさかサテライトが併設されました。
本日は担当コーディネータが休みで交代で行けということで、まつさかサテライトに来ております。場所は松阪駅近くの「かりよんプラザ」1階。始業は8:30ですが、8:30に行ってもシャッターが開いていないから、ゆっくり行けばよいと事前に聞いていたので、朝から松坂城を見てからサテライトに行くと既にシャッターは開き、おまけに三重県産業支援センターの理事長が座っていて、あせりました。(笑)
■松坂の一夜
サテライトがある「かりよんプラザ」には江戸時代、旅籠・新上屋があり、本居宣長が尊敬する賀茂真淵と生涯で一度だけ出会って教えを受けた場所です。「松坂の一夜」の舞台として有名で、尋常小学校では教科書に掲載されていました。
当時、松坂の医者だった本居宣長は34歳。 賀茂真淵は江戸に住む国学者で67歳。伊勢へ旅する賀茂真淵に古事記の研究について教えをこいます。二人が会ったのは、これ1回だけで後は手紙による通信教育となります。そして本居宣長は注釈書「古事記伝」を大成させます。
ちなみに本居宣長の子孫が映画監督の小津安二郎です。
