駅ナンバリング

伊勢中川駅
大阪では市営地下鉄で駅ナンバリングが実施されています。
アルファベットと番号の組み合わせで駅を示し、インバウンドで訪れた外国人や日本人観光客にとっても便利。喜連瓜破(きれうりわり)のような難読駅でも「T33」で分かります。御堂筋線は「M」、谷町線が「T」、四つ橋線が「Y」、中央線が「C」、千日前線が「S」、堺筋線が「K」、長堀鶴見緑地線が「N」、ニュートラムが「P」、今里筋線が「I」になっています。ただ起点駅は「1」ではなく「11」からスタートしています。
近鉄でも駅ナンバリングがはじまっていて奈良線が「A」、橿原線が「B」、大阪線が「D」、名古屋線が「E」、吉野線が「F」になっています。支線では、生駒線が「G」、天理線が「H」、田原本線が「I」、信貴線が「J」、湯の山線が「K」、鈴鹿線が「L」、山田・鳥羽・志摩線が「M」、道明寺線が「N」、長野線が「O」、御所線が「P」となっています。
大阪市営地下鉄で一番大きな数字は八尾南駅の「M36」ですが、日本一営業キロが長い近鉄となると駅の数が多いので、大阪線ですと伊勢中川駅の「D61」。伊勢中川駅からは山田・鳥羽・志摩線がはじまり中川駅は「M61」になります。志摩線の最終が伊勢志摩サミットの舞台・賢島駅になり「M93」となっています。難波から賢島まで93も駅があるんですね。路線にあと7駅増えると3桁となります。ウルトラマンの故郷「M82」は鳥羽駅です。(笑)

信長が蘭奢待を切り取った多聞山城

多聞山城
織田信長よりも先に天下をおさめた三好長慶の部下が松永久秀。久秀の奥さんは長慶の娘でした。その長慶の命で大和を支配することになりましたが、興福寺などを倒し、松永久秀が1561年に大和と山城の国境付近に築いた平山城が多聞山城です。
松永久秀は信貴山城を拠点としており、信貴山といえば虎で有名な朝護孫子寺で、多聞天(毘沙門天)が本尊。この多聞天を城に祀ったことから多聞山城と呼ばれました。
■戦う城から見せる城へ
城には四階櫓があり、これが天守の始まりと言われています。棟上げ式には奈良の住民を招待し、誰が支配者か分からせる目的もあったでしょうが、基本はパフォーマンス好きですね。
城の防備のために 長屋状の櫓が築かれ、これが近代の城に続く多聞櫓になりました。戦う城から見せる城へ変わる画期的な城で、織田信長も安土城を造る時に大いに参考にしました。奈良の実質的な守護だった興福寺を見下ろせるところにある城ですので、奈良支配にはもってこいの場所です。とはいいながら筒井をはじめとする国人との戦いは大変でした。
■多聞山城で蘭奢待を切り取る
織田信長が足利義昭を奉じて京都に登ってきた時に降伏。多聞山城は織田信長の城となりました。信長が多聞山城を訪れ、天皇の許可を受け正倉院から多聞山城へ香木「蘭奢待」を運んで切り取らせます。信長以前に切り取ったのは足利義満、足利義教、足利義政、土岐頼武。多聞山城から歩いて10分ぐらいのところに正倉院はあります。
織田信長の朝倉攻めが浅井長政の裏切りで金ヶ崎から撤退する時、近江の朽木谷領主・朽木元綱を説得して味方にし、信長の窮地を救ったのが松永久秀です。信長を裏切っても許されているので憎めない武将で信長も一目置いていたようです。茶人としても有名でした。
織田信長が筒井順慶を大和の守護に任じた時に多聞山城の破却を命じます。石材の多くは筒井城や郡山城などに移されました。城跡の遺構は残っておらず、現在は若草中学校になっています。中学校校舎とグランドの間には大堀切があり、上が渡り廊下になっていて下は道路になっています。渡り廊下まで、けっこう高く、当時はすごい堀切でした。

松永久秀の鹿背山城

鹿背山城
京都と奈良の県境、鹿背山(木津)にある山城。源頼朝が全国に守護を置きましたが、大和の国では興福寺が支配していまたので守護は置かれませんでした。興福寺の衆徒である土豪(国人、国民と呼ぶ)と一緒に国をおさめていました。こうなると寺と言っても武装集団です。築城者は誰か分かりませんが、この興福寺が支配していたのが鹿背山城。
やがて三好長慶の部下だった松永久秀が信貴山城を拠点として大和に侵入してきます。大和の国を支配し、多聞山城を築城。興福寺は松永久秀に屈して鹿背山城は松永が支配することになります。この時に戦国の山城として防衛を強化したようです。松永久秀はやがて足利義昭を奉じて上京してきた織田信長に従い、紆余曲折の後、謀反を起こします。
木津という土地は奈良時代に行基が木津川に橋をかけ、難波や京都と結ぶ船の道がありました。後醍醐天皇が立て籠もった笠置を通って伊賀へ抜ける要衝でした。昔はお隣の加茂に都もあった一等地です。今はJRの関西本線、京都線、学研都市線の3つの路線が混じる木津駅があります。本数は少ないですが(笑)
鹿背山城は尾根の三つのピークに主郭を置き、それぞれにたくさんの曲輪や堀切が配置されています。かなりの規模で見応えがあります。「木津の文化財と緑を守る会」がいろいろと整備しているようで曲輪には番号がつき、藪も切り払われて、とても見やすくなっています。本格的な山城なのでスーツ姿では無理ですねえ。

スーツで登れる上野山城(木津)

城山台
JR木津駅から見えている小山の上にあるのが上野山城。
木津駅の東側は木津高校があるぐらいで、あとは山々でしたが城山台という住宅地が開発され、あれよあれよという間に高台にできた街になってしまいました。
住宅街を通って、半分、ハゲ山になった城山の麓に行くと、城郭公園という小さな矢印があり、ここを登っていくと城跡に到達します。木津の町が見下ろせ、なかなか眺めがよいです。ですのでスーツでも登れます。
城跡は頂上にありますが、東西南北50メートルほどの土塁に囲まれた曲輪が見事に残っています。史跡公園として整備されているので藪も木もなく、曲輪がそのまま見られるのがいいですね。曲輪に入る土橋や堀もしっかり残っていて土橋は2ケ所ありました。3つの尾根に曲輪が続いていたようですが、これは城山台開発でなくなってしまいました。
地元の国人であった木津氏の木津城とも考えられていましたが、木津城は平城で、木津駅の西側にあったようです。ですので上野山城は街道を抑えるための見張りのために造られたもでしょう。城跡の解説板には地元の農民や土豪が逃げ込んで、たてこもるための城と書かれていました。
多くの城山が住宅地で跡形なく消えていくなか、曲輪の一つだけでも残ったのは幸いですね。

正倉院展 天平時代も大変だった

正倉院展
山城などを3つ巡ってから奈良国立博物館へ。第67回正倉院展です。
いつも通りオータムレイトチケットで入場。閉館の1時間30分前から発売される当日券で、夜に行くと待ち時間なしです。入口を入ったところに紫檀の琵琶があり、さすがに人だかりしていました。裏面はルイビトンのモノトーンにそっくりですね。
正倉院展の入口に正倉院特集の読売新聞がいつも置いてあるんですが、そこにも「バッグの柄によく似ている」と書かれていましたので、皆、同じことを感じるんですね。
いつも楽しみにしているのが古文書。大津大浦という人が書いた書状が納期をのばしてほしいという内容。解説によると前に納期を伸ばしてもらったけど、責任者が出張中で、その納期に間に合いそうもないという理由が書かれているようです。いつの時代も大変なんですね。
あと反古紙になった文章の上に手習いで七夕の詩が書かれていました。七夕といっても「笹の葉さらさら~」ではなくて五言律詩。漢詩を覚えるために天平人がひたすら練習したんですね。出世に響いたのかなあ。本当にいつの時代も大変です。

とりカレー(天満橋)

なかい
大阪府よろず支援拠点の周辺にあるカレー屋を巡っていますが天満橋駅近くにもカレー屋さんを発見。
場所は松屋町筋の内平野町2丁目から谷町筋へ向かって東にずっと上町台地を登ったところ。天満橋駅の近くになります。店の名前は「焼き鳥バル なかい 天満橋店」で、夜は焼き鳥とベルギービールのお店ですがお昼はカレー屋になっています。
普通のライスではなくってチキンスープでふっくらと炊き上げた”とりめし”になっていますので、看板には”とりめしカレー”と出ています。ルーはスパイスカレーですが、ベルギービールを使っているそうです。焼き鳥屋さんなんで、サラダ付きのチキンカツカレー(800円)を頼みましたが、なかなかいけます。
後で入ってきた女性のお客さんがカレーとベルギービールを頼んでいて、とってもビールがおいしそう!いいな~あ!

東京23区は稲荷神社がトップ(マイナンバー)

天満宮
マイナンバーの個人番号についてはニュースなどでよく話題になっていますが法人につけられる法人番号もあり、こちらは公開されます。
法人番号公表サイトが立ちあがっており、11月26日(月)から運用がはじまっています。順次、公開されていますが、第一陣として国の機関・地方公共団体、東京都23区内の法人番号が公開されています。渋谷区にある「オールアバウト」も公開されていました。
会社設立において以前は、類似商号規制がありましたが、現在は廃止されています。そうはいっても同じ社名をつけると紛らわしいので、同じ市内につけたい会社名がないか探すには便利ですね。
NPOも対象ですので、もちろん公開されています。変ったところではマンションの管理組合や労働組合、神社、お寺も公開されています。
現在のところ東京都23区だけが対象ですが神社名で探してみました。
稲荷神社 - 223件
八幡神社 - 68件
熊野神社 - 21件
諏訪神社 - 21件
白山神社 - 7件
愛宕神社 - 5件
春日神社 - 5件
天満宮  - 3件
富士神社 - 2件
住吉神社 - 1件
商売繁盛のお稲荷さんがダントツですねえ。関東武士の土地なので八幡神社もマアマアあります。でも航海の神さんである住吉神社は一つだけしかないんですね。上方から菱垣廻船や樽廻船が行き来したのにしては少ないですね。国税庁なんで固定資産税もあるから社みたいな小さなのも対象になると思うんですが、どうなんだろう。

なんでツン読がたまってしまうのか

出版
今日も本屋で5冊買ってしまいましたが、先週、買った5冊はまだ表紙も開けておらず、これでツン読の山に10冊が追加されました。
「本を買うスピード = 本を読むスピード」
となればツン読にならないんですが、どう考えても本を買うスピードが読むスピードにかなりの割合で勝っています。これが不思議なことにお酒ですと適正水準になります。近鉄瓢箪山駅近くにある瓢箪屋さん(地酒屋さん)へ行くと一升瓶をいつも3本ほど買ってくるのですが、次に買いに行くのは2本半ほど空いた頃になります。ですのでストックは一升瓶が3本。他にワインやビールも並んでいますが、それほどの量ではありません。ちょっと多いですが本の比ではありません(笑)!
これは代替と希少性の問題でしょうね。お酒は1本ごとに確かに味が違いますが、2・3杯飲んでいると酔っぱらってくるので、別になんでもよい状態になります。本の場合はそうはいきません。読んでいる推理小説が途中から歴史小説に代わったら誰でも怒ります。つまり本は代替が難しい商品となります。
もう一つは希少性。出版不況のため出版社は自転車操業に近い状態になっています。出す部数が減り、出版点数が増えていますから、新刊といえども目にした時に買っておかないと、すぐに返本され、店頭から消えてしまいます。書籍の返品率は40%ほどで、配本された本を書店に並べもしないで返す”即返”もあります。ですので”本は見た時に買え”が鉄則です。
この代替と希少性の問題があるため、やはり本を買ってしまいツン読になるんでしょうね。
と自分を納得させていますが、せっせと本を読まなくちゃあ!

伊勢長島城

伊勢長島城
名古屋へ専門家派遣に向かう途中、長島駅で下車。
長島というとホワイトサイクロンのあるナガシマ・スパーランドがある所ですが、昔は木曽三川(木曽川、揖斐川、長良川)の河口に点在する島々で構成されていました。
輪中と呼ばれる地帯で、治水に常に悩まされ、徳川幕府が薩摩藩に三川を分流する工事を命令します。薩摩藩では多額の費用と犠牲をはらって工事を行い、これが千本松原になっています。工事を指揮した薩摩藩士平田靱負は完成後に切腹しています。
長島は伊勢湾台風でも甚大な被害をうけ、町の数カ所に棒が建てられ伊勢湾台風の水位が刻まれていました。3メートルぐらいの頭上ですので、町は完全に水底になったんですね。
■信長との戦いの舞台 長島一向一揆
戦国時代は長島を舞台に本願寺門徒と信長が戦いました。石山本願寺に呼応して決起し、結局、4年もの長期の戦いになりました。一揆といっても島の要塞を攻める攻城戦です。織田方は甚大な被害を受け、織田信長の弟や親族の多くも戦死、西美濃三人衆の一人である氏家卜全は逃げる時の殿(しんがり)となり討ち取られています。
鎮圧した後は滝川一益が居城とし、賤ヶ岳の戦い後、織田信雄の居城となります。江戸時代は長島藩がおかれました。本丸跡などは小学校や中学校になっており、堀跡が水路として残っています。大手門が近くの寺に移築されて残っています。

大阪府立貿易館

大阪府立貿易館
大阪府よろず支援拠点が入っているマイドーム大阪や大阪商工会議所、シティプラザ大阪が建っている所は、江戸時代、西町奉行所でした。明治になって初代大阪府庁が置かれ、その後大阪博物場ができます。中之島図書館や天王寺動物園の前身となります。
大正時代、大阪府立商品陳列所が堂島にあったのですが、火災で焼けてしまいます。1917年(大正6年)に現在、マイドーム大阪などがある所に再建されました。1930年(昭和5年)に大阪府立貿易館という名前になります。事業の内容は貿易助長や産業貿易思想の涵養(講演会、映画会、図書館)、時代らしく対満貿易の助長もやっていました。分館が新京、奉天、上海、天津、青島、広州にあり職員は73名だったそうです。
戦時中は貿易関係業務が集約され、南方資源調査などに当たることから大阪南方院という名前となります。戦後、大阪府立貿易館が復活しましたが大阪府の機構改革に伴い、1987年(昭和62年)に廃止されます。
この大阪府立貿易館には大阪府立貿易専門学校もありました。それでマイドーム大阪の前に専門学校の碑が建っているんですね。