西国街道をゆく(調子八角)

調子八角

西山天王山駅は2013年(平成25年)にできた阪急京都線の駅で長岡天神駅と大山崎駅の間にできました。住宅街や立命館中学校・高等学校があるので乗降客で賑わっています。駅を出ると交差点があって、調子八角という変な名前がついています。この交差点が西国街道と丹波街道の分岐点で丹波街道が調子八角で分岐し、大枝の沓掛まで進んで山陰道に繋がります。

■光秀が通る街道だった
亀岡城を出た明智光秀が本来は沓掛から丹波街道に入り、調子八角から西国街道を通って備中高松城を水攻めしていた秀吉の応援にいくはずが、沓掛からそのまま都へ入って本能寺の変を起こします。

■調子八角の由来
調子は山城国乙訓郡調子荘を本拠地とした調子氏に由来するそうです。もともとは下毛野氏だったそうで栃木あたりの豪族だったようです。八角は八角堂があったかという説などいろいろあります。交差点には元禄時代の道標が残っていて「右 あたご道」、「左 たんば道」と書かれています。西国街道から愛宕詣でするための道案内でした。

西国街道をゆく(神足)

神足駅

JR長岡京駅近く西国街道沿いの公民館前に神足(こうたり)駅の看板があります。1995年(平成7年)に神足駅から長岡京駅に駅名変更となり、それまで使われていた看板です。駅名が長岡京になっていますが大極殿跡などは阪急・西向日駅が近く、JR長岡京で降りると、かなり歩くことになります。神田神保町へ行こうと神田駅で降りるのと同じで学生時代にやりました(笑)。もっとも広い都ですから長岡京に駅が含まれていることは確かです。

神足は古い地名で桓武天皇が長岡京にいた時に夢を見ました。田村にあった池に天から神が降り立ち、都を襲おうとした悪霊を防いでいました。神を見ようとしても頭を上げられず足しか見えません。そこで神社を建て、これが神足神社となります。田村という地名も神足になりました。

西国街道をゆく(勝竜寺城)

勝竜寺城

山崎の戦いで敗北した光秀は勝竜寺城に入りますが、兵の脱走や離散が続いたため北門から脱出し坂本城を目指す途中、小栗栖の藪(山科)で農民の落ち武者狩りにあい命を落とします。脱走兵は西国街道を通って京都を目指し、長い列になっていたと宣教師が書き残しています。

勝竜寺城は南北朝時代からありましたが二重の堀など整備したのが細川藤孝です。ここは藤孝の嫡男忠興と明智光秀の娘お玉(細川ガラシャ)が結婚して新婚時代を過ごした城であります。勝竜寺城は公園になっていますが、少し離れた神足神社境内で惣構の跡が発見され、高さ6メートルを超える大規模な土塁・空堀が復元されています。

西国街道をゆく(山崎の合戦跡)

山崎の合戦跡

山崎宿から東を目指します。まずは山崎の合戦跡。天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変が発生し、6月13日に行われたのが山崎の合戦です。摂津から西国街道を進んできた秀吉軍と明智軍がぶつかります。天王山の戦いとも言いますが、実際に戦いの舞台になったのは山崎宿から少し東にいった小泉川になります。今は大山崎JCTがあります。

明智軍は川沿いに柵をもうけ長篠の戦いの再現を目指したという説もあります。戦いは雨が降る中、夕方にはじまったようで、最初は双方とも互角の戦いだったようです。秀吉側の池田恒興らが小泉川を渡り、明智軍の側面から攻撃したため浮足立った明智軍の雑兵が逃げ出し総崩れになります。

西国街道をゆく(生田神社)

生田神社

なくなったサンパル横の西国街道を行くとJR三宮駅になっていて街道が途切れます。昔は生田神社まで街道が続き、神社で南に方向を変えていて西宮神社と同じ構図でした。生田神社境内に生田の森があり、今は面影がありませんが枕草子に「森は大あらきの森、信太の森、生田の森」と記されるほどの森でした。

■源平合戦の舞台
京都は守りにくい土地のため平清盛は福原(神戸)遷都を行います。福原は南の瀬戸内海と北の六甲山脈で守られ、東の生田の森と西の一乗谷をしっかり守れば天然の要塞となりました。平家の都落ちでは生田から一乗谷につながる膨大な要害を作り上げ、制海権もおさえていました。結局、義経が鵯越から攻めてきますが、最近の学説では逆落としをしたのは地元の多田行綱で、義経は一乗谷で戦っていたようです。

■だまし討ちだった
どうも後白河法皇による騙し討ちだったようです。和平を勧告し、平家には武装解除して源平に戦争しないように申し伝えていました。そこへ義経が攻め込んできたので、完全な騙し討ちだったというのが実態のようです。

■神戸 地名の由来
生田神社に奉仕する44戸の神戸(かんべ)。神戸とは神社に税金をおさめるための土地のことです。この「カンベ(神戸)」が中世に「コンべ(紺戸)」になり近世に「コウベ」になったようです。

山崎からひたすら歩いた西国街道ですが神戸までたどりついたので西へ向かうのは終了。

西国街道をゆく(サンパル)

サンパル

西国街道を進んでいくと神戸三宮につきます。駅前のオーパー(昔のダイエー)、ミントの北側の細い通りが西国街道です。オーパー(ダイエー)から2階で連絡していたサンパルはきれいさっぱりなくなっていました。サンパル2階に「ひょうご産業活性化センター」があり、2013年から3年間、経営相談アドバイザー(木曜担当)を担当していました。阪神三宮駅から地下のスーパーなどを通って濡れずに行けるのがよかったですね。

昼休みになるとダイエーのジュンク堂へよく行っていました。またサンパルは古書店が多く入居していましたが、私が行っていた頃はロードス書房だけ残っていました。その少し前は伊勢の超書店万陽も営業していて、本好きには最適な場所でした。そうそう隣には三宮図書館もあって地方史などが充実していたので兵庫の山城を調べによく行っていました。

西国街道をゆく(阪神岩屋駅)

阪神岩屋駅

阪神三宮駅は地下にありますが、地下に潜りはじめるところにあるのが岩屋駅です。岩屋駅-春日野道駅ー三宮駅となります。駅のすぐ横を西国街道が通っています。地下化はけっこう古く1933(昭和8)年に地上を走っていた阪神電車は、岩屋~三宮間が地下になりました。

今は岩屋駅の改札口は西口しかありませんが、昔は東側にも東口がありました。道路からホームに降りる階段が今も残っていて、これが東口の名残です。地下に入る時に一瞬で通り過ぎる階段をよく見ていましたが、西国街道を歩くついでによってきました。岩屋の地名の由来は磐座(いわくら)説や古墳説(岩で家をこしらえた)などいろいろあります。

西国街道をゆく(処女塚古墳)

処女塚古墳

神戸東灘区に入ったところに処女塚古墳(おとめづかこふん)という前方後円墳があります。それほど大きくはなくコンパクトなサイズで上に登れます。西に西求女塚古墳、東に東求女塚古墳があり、万葉集などに菟原処女の伝説の舞台として登場します。もっとも古墳が造られた時期も違うので単なる伝説です。

この古墳は西国街道のすぐ近くにあるため戦場になりやすく南北朝の戦いで太平記に登場します。湊川の戦いで楠木正成は討ち死にし、新田義貞は都へ敗走しますが、馬を矢で撃たれたため降りて処女塚古墳に登り尊氏軍と戦います。義貞のピンチを見て、小山田高家が自分の馬に義貞を乗せて逃がし、自身は処女塚古墳で戦い討ち死にします。

RedBall2024

Redball2024

午前はRedBallに出席していました。といってもオンラインです。

RedBallとはAllAboutのガイドが年1回集まるイベントです。AllAboutの「o」が赤玉なんで、RedBallという名前になっています。東京に集まって、まじめな話を聞いた後、ワイワイと交流会があり、これが目当てだったんですが、コロナ禍以降はオンライン開催になっています。

今年あたりからリアル復活かなと思ったらオンラインでした。残念!
そうそう来年25周年を迎えるのですね。All About「企業のIT活用」はスタートから1年たった2002年3月20日にスタートしました。もう20年以上も前なんですね。歳をとるはずです。

西国街道をゆく(本住吉神社)

住吉神社といえば住吉大社が有名ですが、JR住吉駅近くに本住吉神社がありました。神功皇后の三韓征伐からの帰途に船が進まなくなったため、神託に従って住吉三神を祀ったと記される「大津渟中倉之長峡(おおつのぬなくらのながお)」の地がここだと伝わっているそうです。

住吉大社はここから勧請したから本住吉神社というそうです。本居宣長が古事記伝で本住吉神社の主張を支持しているそうですが、ほんまかいなあ。神社の南は西国街道で東側を南北に有馬街道が通る交通の要衝にありました。