大学認可問題

大学の認可問題が世間をにぎわせています。認可プロセスや18歳人口が減るなか反対に大学が増えているのは確かに問題ですが、田中大臣は勇み足でしたね。 

かなり昔ですが、大学の新学部増設で非常勤講師をお願いされて、いいですよと承諾書などに判子を押して大学に出したことがあります。出したのは秋でしたが。年が明けると勤務していた専門学校の業務が忙しくなりそうになってきたので、「すいません来年度、新学部の分はちょっと無理です」と大学に申し出をしました。 

そしたら「文部省に書類を出して認可をもらったので、絶対出講してもらわないと困ります。代わりの講師もダメです。」という返事。なんでも遠方地に転勤された先生がいて、大学では飛行機の費用まで出して出講してもらった事例があります、と言われ、エーッと驚いたことがあります。文部省の許認可事項はがんじがらめなんですね。 

新学部でこの騒ぎですから、大学を作るとなると施設を作る手配をし、講師手配して承諾書をもらって提出していたはずです。大学をやるというエビデンス(証拠)を揃えて提出しないと認可がおりません。 

■創業融資もエビデンスが必要
ちょっと創業融資に似ています。居酒屋などを開業しようとする場合、日本政策金融公庫の創業融資を活用する人が多いのですが、まず店舗をおさえないといけません。融資の申し込みでは不動産の重要事項説明書など資金使途となるエビデンス(証拠)が必要になります。 

大家さんから重要事項説明書をもらおうと思っても大家さんは当然、手付を入れてくださいと言います。創業融資が降りるかどうかはわかりませんので交渉しなければなりません。中には手付をいれてしまう人もいます。創業融資が降りないと資金的に無理なので物件はキャンセルしなければなりませんが、手付はキャンセル料で消えてしまいます。 

今回の場合も大学側はエビデンスを作るためにいろいろ用意しているはずですので、不認可になると用意したものが全部無駄になり、相当の損害を被ることになるでしょう。

三重県中小企業診断協会 建設業経営研究会

sindan201211.jpg名古屋市新事業支援センターで窓口相談が終わった後、近鉄ではなく久しぶりにJRの快速みえで津へ戻ってきました。快速みえは桑名、四日市、鈴鹿、津にしか停車しませんので近鉄の特急なみに早いのですが、1時間に1本というのが難点。 

快速みえで戻ったのは夜、アスト津で三重県中小企業診断協会の建設業経営研究会があったためです。参加者は15名ほど。会員数が少ない地方の中小企業診断協会にしては参加者が多いですね。 

建設業経営研究会の2回目。講師は株式会社古川経営の水谷さん(中小企業診断士)で、親戚ではありません(笑)三重県には水谷姓が多いのです。 

研究会の内容は建設業の会計についてがメインでした。建設業には独特の勘定科目があり、完成工事高(売上高)、完成工事未収入金(売掛金)、工事未払金(買掛金)、未成工事支出金(仕掛品)などがあります。 

また長期にわたる工事もあり、売上高計上を工事完成時にするのか、期間を区切って出来高分を計上する工事進行基準にするのかなどについても解説がありました。どう出来高を測るかが悩ましい問題ですね。 

これはシステム開発にも波及している話でして、国際会計基準(IFRS)が工事進行基準を採用することもあり2009年4月以降からソフトウェアの受注生産が工事進行基準の対象となりました。企業規模を問いませんので、中小企業も対象となっています。 

▼ソフトウェア開発も国際会計基準(IFRS)に!? 
http://allabout.co.jp/gm/gc/298254/ 

四支援機関連携促進会議

mie201211.jpg四支援機関というのは東海地域にある愛知県、岐阜県、三重県、名古屋市にある中小企業支援センターのこと。道州制をふまえて「あいち産業振興機構」のプロジェクトマネージャの音頭でスタートした情報交換会です。2006年にスタートしました。各支援機関のプロジェクトマネージャやマネージャが参加しています。 

今回、幹事が三重県でしたので塩浜にあるAMIC(高度部材イノベーションセンター)を会場にして開催。 

セミナーとして桑名にあるアサプリ・ホールディングの松岡社長にお話しいただきました。逆風下の印刷業界の中でいかに生き残っていくか、すさまじい話でした。数管理などすごかったですね。パートのおばちゃんまで会社がどうなっているか把握できるシステムになっています。もっとも難しい話をして理解できないのでグループ企業内での取引増やすために家庭内マージャンを事例にするなど、よく考えられています。 

船場総研 伊賀上野散策

igaueno201211.jpg船場勉強会という大阪を中心とした中小企業診断士の勉強会があります。もともとはNifty-ServeのFlic(資格フォーラム)にあったオフライン勉強会。ここのOB組織が船場総研です。試験合格後も勉強会へ出入りして、受験生の邪魔だということで邪魔しないように組織されたようです。(笑) 

船場総研では年に何回かビジネススクールのような勉強会を開催したり、商店街視察をしたりしているのですが、最近は蔵巡りなど遊びモードが中心になっています。 

一度は三重でやろうということで昨日は伊賀上野散策を行いました。伊賀上野は仕事でよく行っているので新鮮味はないですね。(笑) 

お昼は伊賀上野名物の田楽を食べに、田楽座わかやへ。炭焼きの田楽で有名なお店で、平日は少し待てば入れますが、さすがに祝日は超満員。20分ほど待って、おいしくいただきました。昼食の後は、鍵屋の辻(ここは知られていないのか観光客は一人だけ)~崇廣堂(藩校)~伊賀上野城~忍者屋敷を巡ってきました。伊賀上野城や忍者屋敷は観光客が多かったですね。 

夕方になったので上野市駅から少し歩いたところにある養老の滝へ。伊賀上野で居酒屋ってあまり見たことなかったので事前に調べ、伊賀の人に聞いたのですが上野市駅周辺に居酒屋は皆無。少し離れたところにポツン、ポツンとあるぐらい。地元の人は居酒屋はロードサイト店に送迎付きで行くそうです。帰り際にちょっと一杯行こか、はいいけど、行く店がないのは困るなあ。

平安京の四神 陰陽師の世界

京都
昨日は野村萬斎主演の映画「陰陽師」をやっていました。舞台はもちろん平安京。
平安京を作る時に考えられたのが都を守る四神「玄武(山)・朱雀(池沼)・青龍(川)・白虎(大道)」です。従来から玄武は船岡山、青龍が鴨川、白虎は山陽道、朱雀は巨椋池と言われています。ちょうど歴史地理学の本を読んでいると、この四神について面白いことが書いてありました。
朱雀(船岡山)からまっすぐ内裏を通って朱雀大路が通っていますが、ここから等間隔で西堀川と東堀川があります。この西堀川と東堀川の間隔をそのまま東に伸ばすと鴨川になります。地図や等高線を調べると、どうも西側の等距離にも道と川があったことが判明。
これが木嶋大路で一番北に蚕ノ社があります。現在、この道はありませんが大路と御室川が流れていたようです。それぞれの間隔がちょうど588丈。1丈は今の約3メートルです。当時1里は180丈でした。これを10倍すると1800丈。
          船岡山
          内裏
木嶋大路  西堀川    東堀川   鴨川
  588丈--+-588丈-+--588丈
1800丈-18丈×2=588丈×3 となり18丈は約60メートルですので鴨川の幅と木嶋大路の広さだったようです。
つまり西の白虎は山陽道などではなく都に平行して南北に走っていた今は失われてしまった木嶋大路だはないかという説です。また朱雀も巨椋池ではなく、羅城門からちょうど10里行ったところに横大路朱雀という字名が残っているそうで、ここに人工池が作られていたのではという説です。
もし、そうだとするとかなり緻密に平安京を作っていたんですね。まさに計算の陰陽師の世界です。

2分間隔で電車が来る東山線

nagoya201210.jpg名古屋市新事業支援センターへ行くのに近鉄名古屋駅で降りて、地下鉄・桜通線に乗り換えています。今日は朝から名古屋大学の研究室へ行く用事があったので近鉄を降りて、桜通線への連絡口ではなく東山線へ。 

朝の地下鉄東山線・名古屋駅って行ったことがなかったのですが、めちゃくちゃ混雑しています。改札の前に行列ができているのにまずビックリ。改札の先がつまっていて、行列はずっと続きホームに降りる階段もずっと行列です。ただし地下鉄は2分間隔で走っているので、そう待たずにホームに降りることができました。 

この2分間隔は東山線全区間で、この短さは日本一なんだそうです。東京のメトロ丸ノ内線は1分50秒間隔ですが、これは一部区間になります。東山線って、めちゃくちゃすごいダイヤなんですね。あれほどの行列でしたが車内は御堂筋線のようにギュウギュウではなく、少しゆったりしています。すぐに電車が来ることもあって、一杯になりそうになると待つ乗客が多いことが影響しているようです。 

東山線の本山駅で乗りかえて、環状線のように1周している名城線へ。一駅乗ると名古屋大学という駅です。ここの3号出口は名古屋大学キャンパスに直結。濡れずに大学構内に入れます。 

駅から大学まで学生街が広がるというのが定番なんですが、3番出口にそんな風情はありませんねえ。

津城下図

tsu_kotizu201210.jpg三重県産業支援センターで昼休みに中日新聞を見ていると津城下図が発売されたという記事を発見。発売されたのは寛永期(17世紀)、享保期(18世紀)、嘉永期(19世紀)の3枚です。享保期については去年も発売され、たまたま新聞で見つけたのですが、10日ほど経って買いに行ったら早々に売り切れていました。今回は発売開始3日後の金曜に少し時間ができたので津市役所へ出かけて買うことができました。嘉永期は1000部、寛永期、享保期は500部の発売で、金曜日時点で既にだいぶ減っていました。3枚ともゲットできたのはラッキー。 

日曜日は雨でしたので、しみじみと津城下の古地図を眺めていました。実家から三重県産業支援センターへ行く時、近くにある大市神社にお参りした後、神社の裏口を出て、まっすぐ続く道を通っています。郷社「大市神社」は、江戸時代「川松明神」という名前。 

道は庭岩禅寺、八百亀商店(八百屋さん)、佛眼寺、天理教津大教会の横を通って百五銀行本店の裏側で岩田川にぶつかります。古地図を見ると同じ位置に道があり庭岩禅寺や佛眼寺の名前が見えます。何とと言うことはない道なんですが江戸時代から、ずっと続いている道なんですね。 

現在はありませんが岩田川の中には島があり、位置的には中部電力・津支店あたりのようです。 

古地図を眺めて歩くとブラタモリ気分が味わえます。あの番組、復活しないかなあ。 

ボン・ビーバン10月11月号に執筆しています

ボン・ビーバン
全国信用組合中央協会が発行している情報誌「Bon Vivant」(ボン・ビバーン)10月・11月号に執筆しています。全国の信用組合の店頭や、また渉外係が配布されていますので機会がありましたら、ご覧ください。
今回のテーマは「更新しないホームページはつぶれた会社と思われる」で、ホームページはほったらかしにせず、季節やタイミングにあわせて更新しなければなりません。
ホームページに載せるコンテンツがない、何を載せたらよいか分からないという話を時たま聞きますが、そういった時はお客さんからよくある問い合わせをQ&A方式で記載しましょう。いわゆるFAQです。FAQの内容を充実させると必然的にページ数が増え、キーワードからの流入が増えます。

堂島 古河ビル

furukawa201210.jpg堂島へ行く用事があったので懐かしい古河ビルへ寄ってきました。サントリー本社のすぐ近くにあります。 

新卒で入った会社が株式会社SRA。当時はソフトウェア・リサーチ・アソシエィツという長たらしい名前でした。西日本営業所があったのが、堂島グランドビル。1階には第一勧銀と本屋・オーム社が入っていて銀行や本屋にすぐ行けて便利でした。特にオーム社は仕事で使うコンピュータ系の本が揃っていてよかったですね。地下には紅茶専門の喫茶ムジカがありました。 

当時は阪急京都線・上新庄に住んでいたので阪急梅田駅で降り、地下街を20分ほど歩いて堂島グランドビルまで雨に濡れずに行くことができました。梅田のだっだ広い地下街は初めて行ったら絶対に迷いますね。あまりにすごいので「梅田地下オデッセイ」(堀晃)というSF小説までありました。 

堂島グランドビルの5階か6階に会社があったのですが、手狭だったこともあり、すぐ近くの古河ビルにもオフィスを借りていました。プロジェクトによって移動したのですが古河ビルにいることが多かったですね。古河ビルは地下街と直結しておらず、サントリー本社近くに地下街への降り口があり、雨が降っていたら古河ビルの入口まで走らないといけませんでした。 

プロジェクトが佳境に入ると深夜まで仕事をすることもしばしば。そのまま古河ビルに泊まり込んでしました。冬で寒いからリストを体に巻きつけて寝たこともありましたが、リストはゴワゴワするだけで、暖かくないことを学習しましたね。古河ビルの地下には床屋、郵便局、歯医者があり、こっちも便利なビルでした。 

池の谷古墳(池の谷砦)

ikenotani201210.jpg津の実家から国道23号線を伊勢方面(津)へ行くと垂水という場所があります。 

垂水は津の中心市街を通らずに抜けることができるバイパス道路と合流するところで、いつも混んでいます。ここから南が丘方面に丘を登る道路があり、丘を登ったところにマルヤス南が丘店新鮮館というスーパーがあります。スーパーの後ろが高台になっていて今は住宅地になっていますが、ここにあったのが垂水城(北鷺城)。今は何も残っていません。 

垂水城から少し行ったところに池の谷古墳という前方後円墳が住宅地のど真ん中にあるんですが、ここも高台の上にあります。古墳は見晴らしのよい所に作られましたので戦国時代はよく砦として使われました。この古墳が池の谷砦跡です。 

垂水城は津近辺を支配していた長野氏の城で、南側の北畠と対立していました。この垂水城が最前線の城になります。池の谷砦は垂水城の出城か、北畠側が垂水城を攻めるために作った付城のようです。前方後円墳の円墳と方墳の間に堀切があると現地の案内板に書かれていましたが、ちょっと窪んでいるぐらいで、よく分かりませんね。 

ただ眺めはめちゃくちゃよく、平清盛など伊勢平氏がよく利用していた安濃津の港がすぐ下に見えますし、伊勢神宮への街道も上から見下ろせます。南側を見ると伊勢中川あたりが見渡せ、先日、行った北畠の天花寺城もバッチリ見えますね。織田信長の伊勢攻めでは長野氏は信長側についてので、まさに垂水が両軍の最前線になりました。