渡辺さんの故郷

渡辺津

天満橋駅近くの大川に渡辺津の碑が建っています。ここが全国の渡辺さんや渡部さんの故郷となる渡辺津があったところです。渡辺津とは大川にあった古代の港で、熊野古道もこの渡辺津が起点でした。

■源綱が渡辺さんのルーツ
平安時代後期には源綱がこの地に住んで渡辺を名字とし、渡辺氏を起こします。大江山の酒呑童子退治で知られる源頼光に仕えた四天王です。渡辺綱の子孫は渡辺党と呼ばれる武士団となり、港を背景に水軍として日本全国に散らばります。これが全国に拡がる渡辺さんのルーツとなります。北九州にわたった一族は松浦党となります。

■秀吉が移転させる
この渡辺津にあったのが坐摩(いかすり)神社。秀吉が大坂城を築城する時に坐摩神社および渡辺党に退去を命じます。坐摩神社は本町駅の南にある現在の久太郎町に移転しました。坐摩神社の境内は渡辺町と呼ばれていましたが久太郎町に統合されようとした時に待ったがかかり、久太郎町渡辺という珍しい番地となります。

墾田永年私財法

今の教科書って、私たちの頃とけっこう変わっているんですね。

墾田永年私財法、「こんでんえいねんしざいほう」という長たらしい名前で聖武天皇が出した勅(天皇の名による命令)です。これ以前に三世一身法が出され。自分で新しく開墾した土地(墾田)は孫までの3代は私財として扱えるよという内容です。

墾田永年私財法

もちろん税金は納める必要があります。ちょうど孫の代になった頃、このまま切れてしまうと土地は国に返されるので、ほったらかしになり荒れる耕地が増えるのではと危惧され、そのままずっと私有にしてええでという法律が出されました。これが墾田永年私財法です。

■ポジティブな墾田永年私財法
墾田永年私財法で公地公民制が崩れ、豪族や社寺が開墾を進めて土地私有化をはかり、これが荘園になっていくので、ネガティブなイメージで講義を受けましたが、今の教科書では評価が変わっているんですね。

当時は、とにかく荒れ地が多く、生産できる土地が不足していました。また天平の疫病大流行で大打撃を受けていました。日本に仏のバリアをはって疫病退散するために奈良の大仏と国分寺ネットワークを作ることにもなります。墾田永年私財法は農民にとっては収入が増えるのでモチベーションアップになり、国にとっては耕作地が増えて税金が増える、まさにウィンウィンの法律でした。橘諸兄あたりが立案したようです。

おやぢの会

法善寺

「おやぢの会」なる、とっても平均年齢が高い会があります。

もともとはオブザーバー参加だったのが、いつの間にか正式メンバー扱いになっていて、おかしいなあ。もちろん平均年齢を下げる方に寄与しています(笑)。

宴会場所は法善寺横丁近くの博多廊で、この暑い中、メインはモツ鍋でした。あいかわらずオフレコ満載の話題で盛り上がっておりました。

店を出るとインバウンドを含めた観光客でミナミの街は一杯。「串かつだるま」には長蛇の列ができていました。そんな有名店に行かなくても、ミナミだったら串カツを出す店はぎょうさんありまっせえ!

大江広元の墓

いざ鎌倉シリーズ

大江広元の墓

三浦氏のやぐら近くにあるのが大江広元の墓。「鎌倉殿の十三人」では栗原英雄氏が演じていました。源頼朝は力で勝っても文章能力がない武士では政権運営はできないと考えており、京都から落ちぶれてはいるが能力のある官僚を招きます。それが大江広元で、頼朝亡き後の承久の乱では鎌倉武士の鎌倉での迎撃論を抑え込んで、出撃するように説得します、これがなければ歴史が変わっていたかもしれません。ここで武家政権が盤石となります。

大江広元の本当の墓は伝として伝わっていますが、ここは島津が江戸時代に建てたもの。大江広元の息子の一人が相模国毛利荘(厚木市)をもらって毛利季光と名乗っていました。武士になると宣言し、毛利家の祖先となります。文官より武官のほうが格上だったようです。島津忠久は島津氏の祖で、一説では源頼朝の子ではないかと言われています。そこで大江広元の墓を中心に両側に毛利季光、島津忠久の墓が並んでいます。島津による、「うちはすごいんだ~あ」というアピールでしょう。

茅ヶ崎館

茅ヶ崎館

江ノ島で過酷なロードが終わった後は茅ヶ崎駅へ移動。海外沿いにある茅ヶ崎館へ。1899年(明治32)に日本郵船・機関長だった人が作った別荘です。現在は和室4室の旅館として営業しており、明治時代の唐傘天井風呂などレトロな旅館になっています。定員12名なので宿を借り切って、まずは旅館内のツアー。樹木希林の「命みじかし、恋せよ乙女」の撮影で使われた和室などを当時のエピソードを聞きながら見学。樹木希林は茅ヶ崎館の女将を演じ、これが遺作になりました。

松竹の撮影所が蒲田から大船に移ったこともあり、東京物語や秋刀魚の味で有名な小津安二郎監督の定宿でもありました。他にも、この宿は本が書けると新藤兼人監督、井筒和幸監督、是枝裕和監督らがよく利用していたそうです。

晩御飯は18:30~21:00頃までの宴会で、最後にすき焼きが出てきて旅館の人が焼いてくれるのですが、煮詰まった所にカレー粉を加えた「カレーすき焼き」は小津監督が自ら来客に振舞ったそうで、名物料理となっています。大変、おいしゅういただきました。

江ノ島

江ノ島

ATコマンド、NifTerm、ComNifty、魔法のナイフ、茄子Rという呪文のような言葉を聞いて、まったく違和感がない一定集団が日本に存在します。この集団の中にさらにFLicという変なフォーラムに参加していた集団がいました。この集団が、さらに細分化し、全国にあった中小企業診断士のオフライン勉強会に参加しているメンバーの残党がいまだに年1回、集まっています。

今年島は江ノの大橋のたもとに集合。江ノ島って初めて行ったのですが坂道と階段だらけなんですね。いやな予感はあたり、ひたすら登ることになります。眺めはいいんですが、炎天下で歩くには苦行です。奥津宮に到着して、今度は下りです。オイオイ、これをまた登って帰るのかなと思ったら、岩屋から船が出ているんですね。観光客で一杯でしたが船もピストン輸送しているので、しばらく待つと江ノ島を脱出できました。

舎人親王邸宅跡

日本の正史である「日本書紀」を編纂した人は誰?

もちろん舎人皇子で、720年に日本書紀を完成させました。日本史で習いましたね。

お父さんは天武天皇で、兄弟は高市皇子、草壁皇子、大津皇子、忍壁皇子、長皇子、新田部親王と「天上の虹」登場人物がオンパレードです。新田部親王、長屋王とともに皇親政権を樹立しますが、やがて藤原氏側になり、結果的に藤原政権の成立に協力します。

奈良そごう

この舎人親王の邸宅跡が先日、発見されました。木簡などは見つかっていませんが、4町分もある広い敷地の建物跡が発見され、有力視されています。場所は奈良市役所近くの佐保川沿いで当時の左京三条三坊四坪です。建設現場の発掘調査で見つかり、既に埋め戻されています。平城京に隣接していた長屋王の邸宅跡があった奈良そごう(現ミ・ナーラ)から徒歩5分ですので、平城京へ出仕するには交通至便なところでした。

三木鉄道 廃線跡

法界寺を降りて加古川三田線の道路へ出ると、すぐ隣に「別所ゆめ街道」という遊歩道があります。これって三木鉄道の廃線跡です。厄神駅(加古川線)と三木駅を結ぶ路線で、もともとは国鉄の路線だったんですね。第三セクターで存続していましたが、三木市から神戸市内へ向かう人は神戸電鉄粟生線を使うので乗客の減少が続いて2008年に廃線となりました。

三木鉄道 廃線跡
三木鉄道 廃線跡

三木市から加古川へ向かう時はショートカットになりますが、神戸のベッドタウンなので難しかったのでしょうね。もともとは三木駅から川を渡ったところにある別所駅が始発駅でした。ここに公園が作られて西這田駅跡まで「別所ゆめ街道」という遊歩道ができ、駅跡には碑などがあって楽しめます。

別所長治の墓

法界寺裏山に法界寺山ノ上付城があります。麓の三木城を攻める付城でしたが、麓の法界寺には三木城城主・別所長治の墓所があります。

別所長治の墓
別所長治の墓

別所長治は長篠の戦が行われた天正3年(1575年)には信長に謁見して、天正5年の紀州征伐にも兵を出しています。信長との関係がよかったのですが、天正5年10月に秀吉が播磨平定で送り込まれてくると、最初は協力していましたが、天正6年(1578年)2月に離反して三木城に立て籠ります。離反した理由はよく分かっておらず、秀吉の上目線に嫌気がさした、毛利氏経由で足利義昭から工作を受けたなど、いろいろと説がありますが別所氏以外の播磨衆が反信長だったので連携したのでしょう。

織田軍は三木城の周りに付城と城間をつなぐ土塁を築き上げ、兵糧攻めを行います。「三木の干殺し」と呼ばれ、三木城は2年間、持ちこたえましたが最後は城を受け渡し、別所長治は自害します。享年は23歳と26歳説があり、いずれにしても若武者でした。

法界寺山ノ上付城

這田村法界寺山ノ上付城法界寺の背後の山上にある付城です。天正7年(1579)4月に織田信忠が築いた6箇所の付城の1つで三木城を見通すことができます。城主は、羽柴秀吉の重臣・宮部継潤と伝わっています。

法界寺山ノ上付城
法界寺山ノ上付城

■宮部継潤
宮部継潤の出身は近江・国友近くの宮部です。秀吉の中国攻めでは山陽を秀長が山陰を宮部継潤が指揮していました。やがて鳥取城主となり、秀吉が山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いと東に転進するなか西を守ります。秀吉の信頼が厚かったんですね。晩年は秀吉の御伽衆になります。

這田村法界寺山ノ上付城は大規模な付城で主郭、副郭と兵の駐屯地である段状の平坦地群が残っています。毛利方が明石から三木城へ兵糧を搬入するのを防ぐための最前線でした。また6条からなる土塁(朝日ヶ丘土塁)が残っていて、なかなか見ごたえがあります。