高田城

高田城
高田城

JR高田駅から桜井線(万葉まほろば線)と和歌山線に分かれる所に高田城がありました。遺構は残っていませんが城の歴史については築城から破城まで分かっている、なかなか貴重な城です。

■築城
永享4年(1432)、足利義教(嘉吉の乱で赤松満祐に討たれた将軍)の命により、当麻兵庫守為貞が高田城を築城します。城主は嫡子で9歳だった為秀がつきました。当麻氏(高田氏)は一乗院方の国民です。

■戦乱
文正元年(1466)高田氏は応仁の乱では畠山政長方でした。対立する畠山義就&越智家栄によって高田城・布施城が攻められ落城します。敗れた高田氏は、筒井氏らと箸尾城に入ったようです。高田城には越智方が入りました。あとは目まぐるしく敵とくっついたり、いろいろと起きます。ベストセラーとなった呉座勇一の『応仁の乱―戦国時代を生んだ大乱』(中公新書)の通りですね。

永禄11年(1568)に織田信長が足利義昭を擁して上洛します。この時に松永久秀が信長によって大和守護に任じられます。髙田氏は松永久秀についたようで、今度は敵対する側となった筒井氏らに攻められ、松永久秀の救援により解放されます。その後、辰市合戦で松永久秀が筒井に敗れるなど紆余曲折がありました。筒井順慶が大和守護になり、松永久秀は信長に刃向かい信貴山で最後を遂げます

■破城
天正8年(1580)織田信長が筒井順慶に命じ大和郡山城を残し、他の大和にあった諸城を破却することになり高田城もこの時に破城となりました。

備中浅尾陣屋

備中浅尾陣屋
備中浅尾陣屋

総社駅の北にあるのが浅尾陣屋跡。浅野藩の本殿ですが、一般の陣屋と違って丘陵の上にあり、土塁などもあって山城のような造りになっています。戦国の気風が残っている時に造ったのでしょう。

浅尾藩の藩主は蒔田氏で本貫はどうも伊勢の雲出のようです。蒔田広定は関ヶ原の戦いでは、西軍に属して、西軍が占領した伊勢安濃津城に駐屯していました。ところが西軍が負け、高野山に蟄居します。岳父が小説「九十三歳の関ヶ原 弓大将大島光義」でも有名な弓の名手・大島光義であり、いろいろと取りなしてくれたことから備中浅尾1万石の領します。

幕末、蛤御門の変の時には京都見回り組を担当し、長州を撃退します。このことが遠因なのか慶応2(1866)年に長州藩第二奇兵隊を抜けた浪士達により、倉敷代官所と一緒に陣屋が焼き討ちされてしまいます。いつも負け組に組するんですね。陣屋は十分に再建されないまま明治維新を迎えることになります。

作山古墳

作山古墳
作山古墳

備中国分寺の近くにあるのが作山古墳という巨大前方後円墳。

中に入れますが全国第10位の規模なんで、ある意味、登山ですね。古墳時代中期の5世紀中頃に造られたとみられ被葬者は吉備の首長でしょう。雄略大王などが活躍していた時代です。

大和朝廷の祖となったと考えられる纏向遺跡には全国各地から人が集まり人工都市が造られました。吉備も大きな役割を果たしていたようで、かなり力があったようです。ですので造山古墳や作山古墳などの巨大古墳ができたようです。

■鬼退治で吉備がやっつけられる
岡山といえば桃太郎ですが、伝説の元になったのが吉備津彦命。出身は奈良県磯城郡田原本町で、四道将軍の1人として吉備に派遣され温羅という鬼を倒したことになっています。どうも大和朝廷と吉備が不穏な関係になって攻められた逸話ではないかという説もあります。

備中国分寺

備中国分寺
備中国分寺

鬼ノ城に登った後、レンターサイクルで散策へ。よく観光ポスターに登場するのが備中国分寺の五重塔です。現在の建物は江戸時代中期(1844年)頃に再建されたものですが岡に建っているので、なかなかの撮影ポイントになっています。吉備路サイクリングロードというのが整備されていて快適に走れます。

聖武天皇が全国に造ったのが国分寺です。他にも奈良の大仏を作りました。費用を捻出するために出したのが墾田永年私財法です。律令国家ですので、土地は国のものでしたが、これを根底から崩す法律でした。開墾した田は永久に私有できることにしました。

目論見は開墾した田からは税収が入りますので、短期的に見ると奈良の大仏や国分寺はできましたが長い目で見ると荘園制度や土地を守るための国人が出始め、武士が台頭するきっかけになってしまいます。

確定申告

確定申告
確定申告

朝から家にこもって、ひたすら確定申告。E-Taxですが毎年、進化していて、だいぶ分かりやすくなりました。
初期の頃なんかユーザーがJavaをインストールしたり、いろいろなソフトの設定をしないと使えないと、とんでもない代物でしたが、まあまあ分かりやすくなっています。
とりあえず確定申告が終了したので、次は合同会社の決算をしないと、こっちがなかなか大変です。

川原寺

川原寺
川原寺

岡寺から坂を降りてくると右に見えるのが川原寺跡です。発掘調査され一塔二金堂式の伽藍配置が復元されています。川原寺の右奥にあったのが飛鳥板蓋宮で、焼けた時に仮宮として川原宮が造られ、岡本宮に移った後に川原宮跡地に川原寺が創建されたと伝わっています。

城登りで疲れ果てましたので飛鳥板葺宮は素通りです。

お寺の奥に見えるのが甘樫丘。そう蘇我蝦夷の邸宅があった所です。飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿がクーデター(乙巳の変)で殺された当日、この辺りは大騒ぎとなり、蘇我を攻める軍隊が終結していたでしょう。「韓人が鞍作(入鹿)を殺した!」という古人大兄皇子の発した言葉が、古代史の謎として諸説を生み出すことになります。

持尾城

持尾城
持尾城

平石城の後は持尾城へ。

南河内グリーンロードを通ると持尾へ行けますが、行ってみたら500メートルにわたってれが8パーミルの勾配になっています。レンターサイクルで登れない(泣)。ひたすら自転車を押してあがりました。途中に持尾展望台があってPLの塔や富田林の街が一望できます。

持尾集落に入って持尾山頂上を目指します。ここにあったのが持尾城で主郭が残っています。元弘2年(1332)に楠木正成が築き平岩氏が拠って戦ったといわれています。眺めがよいので関東軍の動きを烽火で知らせたのではないかと言われています。千早城も見えますので、十分に伝わったでしょう。

秋津はここから国見神社

国見神社
国見神社

国見山城の最寄り駅はJR掖上(わきがみ)駅。この掖上は古い地名で日本書紀に由来しています。神武天皇が東征が終了した後に国見を行います。それが「掖上(わきがみ)の嗛間(ほほま)の丘」。この丘が国見山と言われています。

現在、麓にある国見神社は昔は山頂にあり、神武天皇がニニギノミコト(高天原から日向に降り,皇室の祖先になった神様)を祀ったのが国見神社の始ま理と言われています。いつの頃か東麓に移されて地元の氏神となっています。

さて神武天皇が国見をした時に「なんと美しい国だろう、国原は緑したたる山々に囲まれ、あたかも蜻蛉(あきつ)の臀拈(となめ・交尾ものこと)しているようだ」と言ったので「あきつ」と呼ぶようになり、日本の別号「秋津州(あきつしま)」の名となりました。

初山城は国見山城

国見山城
国見山城

2020(令和2)年の初山城は国見山城。大和の国人・越智氏の支城の一つといわれており玉出山城の南側に国見山城があります。2つの城で西南方面を守っていたのでしょう。

麓に国見神社があり、この神社横の山道を登ると郭の一つに入れます。さらに進むと主郭に入り、展望台になっていますが気が邪魔dえ、見えるのは葛城山方面だけです。主郭の近くの郭の先に畝状竪堀があるはずなので藪の中を進みましたが、よく分かりませんでした。

主郭の先に尾根道が続いていて、その先にも別の郭があり、こちらの竪堀は確認できました。ハイキングコースになっていて道もよく整備され、登りやすい山城になっています。

読み納め「行動経済学の逆襲」

行動経済学の逆襲
行動経済学の逆襲

書籍・雑誌ともに15年連続で売上が前年を下回ったそうです。

皆さんスマホばかり見て読書する人が減っているのは実感できますがジュンク堂や丸善などへ行けば、カゴ一杯に本をいれている人をよく見かけます。本屋が減っているので読書好きが集中しているんでしょう。

今年は割とよく本を読め累積で119冊でした。最近は年間100冊に届かないことが多っかたので、ツン読の解消に少しだけ寄与しました。プライマリーバランスとしては、あいかわらずマイナスで「買う>読む」が解消できていないところがネックですね。

今年、最後に読んだのが「行動経済学の逆襲(リチャード・セイラー)」でノーベル経済学賞を受賞した著者が行動経済学がどう生まれてきたのかを語った一冊。中小企業診断士らしい一冊ですね(笑)。たまたまで、ほとんどは歴史モノばかり読んでいます。