金ヶ崎の退き口

元亀争乱の発端となったのが金ケ崎の戦い。日本海に突き出した尾根にある山城です。

金ヶ崎城
金ヶ崎城

織田信長が朝倉義景を攻めるため金ヶ崎城を落城したところに妹婿の浅井長政が裏切ったという連絡が入ります。お市の方が袋の両端を縛った「小豆の袋」を陣中見舞いに送ったという逸話がありますが、これは後世の創作でしょう。

決断が早い織田信長はわずか十人程度でいち早く撤退、松永久秀が朽木谷の朽木元綱を説得し、朽木越えで無事に都に帰りつきます。本能寺の変では穴山梅雪、山崎の合戦の時の明智光秀など落ち武者狩りでたくさん命をおとしますので信長が無事に帰れたのは僥倖でした。

撤退戦で味方を逃がすために殿(しんがり)で戦ったのが秀吉。後に天下をとったので「金ヶ崎の退き口」として大宣伝をしていますが、実際は池田勝正や明智光秀も殿を勤めていました。「麒麟がくる」でもこの「金ヶ崎の退き口」が放映されていました。

打下城

打下(うちおろし)城へ。

打下城
打下城

一度訪れたことがあるのですが途中で道が分からなくなり切岸を登って、たどりついた山城です。今回は打下城までの道をしっかり覚えたのでバッチリでした。しかも雪が積もっていて藪も雪の下、郭の形がよく分かります。打下城は土塁で囲まれた大きな郭が2つあり、郭の間にある尾根を小曲輪群がつないでいます。

戦国時代に地元の国人領主・林員清(林与次左衛門尉)が築城したと伝わっています。林員清は朝倉・浅井方でしたが織田信長に降伏したようで、「信長公記」によれば信長は打下城を陣所にして朝倉・浅井軍側の高島郡を攻めています。

林員清は天正3年(1575年)に謀反が発覚し、一向一揆との戦いで出陣していた越前・北之庄にて、命を受けて切腹させられますが、同時期に近江で他にも粛清が行われており真相はよく分かっていません。

高島郡は織田信長の甥・津田信澄が支配し、最初は打下城に入っていましたが琵琶湖沿いに大溝城を造り、居城としています。

茨木城

茨木で仕事でしたので、ついでに茨木神社へ寄ってきました。神社には茨木城の搦手門が移築されています。茨木城は摂津にあったお城ですが、現在は住宅地になってしまい殿町といった城にまつわる地名が残っています。遺構として残っているのは搦手門だけです。

茨木城
茨木城

茨木城の城主はいろいろと変わりましたが、信長・秀吉の時代に城主だったのが中川清秀。茨木の隣が高槻で高槻城の高山右近が従兄弟となり、山崎の合戦では最前線で高山右近とともに活躍しました。秀吉と勝家が激突した賤ヶ岳の戦いでは二番手で大岩山砦を守っていた時、勝家軍の佐久間盛政が大きく迂回して攻撃してきたため奮戦しましたが討死します。

かぎろひ

ひんがしの野に かぎろひの立つ見えて
   かへり見すれば月かたぶきぬ

かぎろひの丘
かぎろひの丘

御存じ、万葉集に出てくる柿本人麻呂の和歌です。歌を詠んだ場所が阿騎野で、この写真の場所(かぎろひの丘)ではないかと言われています。昔から阿騎野では薬狩りが行われ、草壁皇子、軽皇子(のちの文武天皇)に随行した時に詠みました。「かぎろひ」とは東の空に見える明け方の光のことです。

阿騎野は飛鳥から多武峰を超えた所でしたので行きやすかったのでしょうね。柿本人麻呂は歌聖と言われる割には生涯についてよく分かっておらず梅原猛が「水底の歌-柿本人麻呂論」で刑死によって沈められたという大胆な説を出しています。昔、読んだなあ。「隠された十字架 法隆寺論」も面白かったなあ。

飯盛山城の急階段

大阪は赤信号が点灯しているので自転車で行ける山城へ

飯盛山城
飯森山城

野崎観音から飯盛山城を登ってきました。元気なシニアの団体が3組ほど登っていました。城跡について石垣などを堪能。

以前、ファイティング・コンサルタンツ研究会で野崎観音から登った時に遅れて参加したメンバーが四条畷神社から登って大変だっという話を聞いていたので、帰りは四条畷神社に降りるコースを選択。

なるほど途中に傾斜45度ほどの階段が続いたところがあり、これを登るのは大変ですねえ。しかもすれ違いも難しいほど狭い階段でした。ただ眺望はすばらしく京都から神戸まで270度見渡せます。

日爪城

日爪城は近江高島にある山城で主郭からは琵琶湖が眺められます。東郭群と主郭の2つに分かれていて郭の間を長い土橋が結ぶ独特の山城になっています。地元の人がよく整備していて看板もバッチリある稀有な山城です。

日爪城
日爪城

このあたりは木津荘という山門領(比叡山)があったところで戦国時代には饗庭荘と呼ばれていました。饗庭氏は西林坊、定林坊・宝光坊の三坊に分かれ、日爪は西林坊が領していたので日爪城は西林坊が整備していたのでしょう。

「麒麟がくる」で比叡山の焼討が行われましたが、この後も信長は浅井・朝倉方と戦っており明智光秀が山門領だった高島郡を攻略しています。この時に日爪城は落城したようです。

三輪成願稲荷社

大神神社へ向かう途中にあるのが三輪成願稲荷社。商売繁盛・心願成就の霊験あらたかということで熱心に拝んできました。なんてたって成願ですよ(笑)。商売繁盛、頼んまっせえ!絶対他力でっせえ!

三輪成願稲荷社
三輪成願稲荷社

三輪成願稲荷社に祀られているのはお稲荷さんで、ウカノミタマという女神です。稲に宿る神秘な穀物の神さんです。ウカノミタマはスサノオの娘で兄が大年神(おおとしのかみ)。毎年正月に各家にやってくる来訪神で、年神を迎えるために門松を門前に立て、鏡餅を供え物とする風習は今も残っています。

稲荷社は全国にありますが、ダントツ1位は戦いの神さんである八幡さん。昔、法人番号公開サイトを使って調べたことがあります。
1.八幡神社 5,841件
2.稲荷神社 3,349件
3.熊野神社 2,187件
4.八幡宮  2,058件
5.諏訪神社 2,004件

八幡神社と八幡宮は同じ系統なのでは、やはりダントツですねえ。

相撲神社

山辺の道から離れて丘を登っていくと穴師坐兵主神社があり、ここの摂社が相撲神社です。

穴師坐兵神社
穴師坐兵神社

垂仁天皇の時代、力自慢の当麻蹴速(當麻在住)がいて俺より強いやつはいないと豪語していました。そこで出雲から野見宿禰を呼び出し試合をさせたのが日本最初の展覧相撲となりました。出雲は出雲国と言われていますが一説には長谷寺の手前にある出雲ではないかと言われています。最初の相撲が行わわれた場所が穴師ということで相撲神社が作られました。

勝ったのが野見宿禰で当麻蹴速は殺されてしまいます。ローマ帝国の剣闘士みたいですなあ。野見宿禰は垂仁天皇に仕え埴輪を作る土師氏の子孫となります。土師氏はやがて菅原氏となり一族からは菅原道真も出ます。

太陽の道(檜原神社)

「太陽の道」ってご存知ですか?

檜原神社
檜原神社

もともとは小川光三さんという仏像写真家が「大和の原像―知られざる古代太陽の道」で発表されたものです。これが1980年にNHK特集「知られざる古代~謎の北緯34度32分をゆく」で取り上げられて一大古代ブームを巻き起こします。奈良国立博物館の北向いに今も飛鳥園があり、小川光三さんはこの飛鳥園(写真撮影会社)の代表でした。

■太陽の道とは
倭姫命(ヤマトヒメ)が諸国を巡り、最終的に伊勢神宮に天照大神を祀りますが宮中から最初に移されて祀ったのが笠縫邑(かさぬいのむら)。山辺の道沿いにある現在の檜原(ひばら)神社といわれています。美内すずえの「アマテラス」の世界ですねえ。

この檜原神社を中心に箸墓古墳、大坂山(穴虫峠)、長谷寺、室生寺などなどが北緯34度32分の線上にほぼ一直線に並びます。一番東は伊勢斎宮跡、西は堺の大鳥大社で、さらに淡路島の伊勢の森へと続きます。これが古代のレイライン(太陽の道)です。

若い頃、大鳥大社からひたすらまっすぐ東を目指して歩き、住宅街などで迷いながら富田林で挫折して喜志駅から帰った思い出があります。

■檜原神社
神社の鳥居からまっすぐ西を見ると大坂山(穴虫峠)があります。二上山の北側で古代、大和と河内を一直線で結ぶ大津道(現在の長尾街道、近鉄南大阪線)が通る峠です。

春分又は秋分の日に檜原神社の鳥居から見ると、穴虫峠へまっすぐに日が落ちていきます。ですのでこの場所に神社を作ったのでしょう。伊勢神宮の最初の地ですので檜原神社は元伊勢と呼ばれています。

阪堺線

大阪府よろず支援拠点の出張相談で堺へ。行きは南海で行きましたが、帰りは久しぶりに阪堺線に乗りました。

阪堺線
阪堺線

阪堺線は大阪(天王寺or恵美須町)と浜寺駅前を結ぶチンチン電車で、専用軌道も走りますが一般道路を車と一緒に走ります。大阪のチンチン電車は今は阪堺線だけになりました。

堺の市街地を抜け、大和川を渡り天下茶屋からミナミを目指します。住吉神社近くの住吉駅で天王寺へ向かう上町線と恵美須町に向かう堺線に分岐します。昔は交差になっていて住吉大社駅があったのですが、なくなってしまいました。

そうそう阪堺線を舞台にした「阪堺電車177号の追憶」(ハヤカワ文庫)という小説が出ていました。「阪急電車 片道15分の奇跡」のように映画化されないかなあ。