椿井大塚山古墳城

JR奈良線の上狛駅を北上するとJRで分断された全長約175メートルの椿井大塚山古墳があります。前方後円墳で40面近い銅鏡が見つかったことで有名な古墳で、箸墓古墳や黒塚古墳とともに古い時代の古墳です。木津川の大動脈をおさえる場所ですので被葬者は地域の有力者だったのでしょう。

椿井大塚山古墳城
椿井大塚山古墳城

椿井大塚山古墳は高台の上にあり眼下を奈良街道が通っているため戦国時代以前から城郭が造られていました。古墳の堀はそのまま水堀として使っていたようです。発掘調査で城の遺構が発見され、竪堀などがそのまま残っていました。後円部を郭にしていたようです。この日も発掘調査をしていました。

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バグは本当に虫だった
バグは本当に虫だった

巣ごもりでビデオやゲームばかりせず、せっかくなので読書をしましょう。

とってもよい本があります(笑)。

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真田丸のオープニング 備中松山城

備中松山城
備中松山城

大河ドラマ「真田丸」のオープニングで使われたのが備中松山城の大手門から見た姿。真田の岩櫃城は巨大な岩の上に造られた山城で、備中松山城が雰囲気によくあっており採用されたようです。

■現存天主
備中松山城で有名なのが城主の猫と現存天主です。明治の廃城令で天主も民間に売られたんですが、あまりにも不便な山上にあるので解体されずに放置され次第に荒廃していきます。やがて高梁町によって修復となりますが、小学生や中学校、女学生などが約2万枚の瓦を人力で頂上まで上げました。

■大石内蔵助が城番
備中松山城は城主が目まぐるしく変わった城としても有名で、城主の水谷家が断絶した時は赤穂藩主・浅野長矩が城の受取りにあたり、家老だった大石内蔵助が備中松山城を受け取り、城番を1年以上勤めていました。山道の途中に大石内蔵助が腰かけた岩が残っています。やがて赤穂城を受け渡す側となりますが、この時の経験がいきたようです。

ふだんの生活は麓の館で有事の際は山頂の城を詰城する根古屋式というのがあります。戦国時代に多い形態ですが江戸時代まで残っていたのは非常に珍しいですね。

城主さんじゅーろー

岡山まで来たので足をのばして備中高梁へ。

さんじゅーろー
さんじゅーろー

麓からせっせと山道を登って備中松山城へ。登っているのはハイカーと山城好きだけです。天主にいたのが城主の「さんじゅーろー」。なんでも豪雨の後、備中松山城三の丸で保護されたオス猫だそうです。

備中松山藩の藩士から新撰組の隊長になった谷三十郎にちなみ「さんじゅーろー」と名付けられました。城の管理事務所に常駐しているそうで、眠そうにしていました。

高田城

高田城
高田城

JR高田駅から桜井線(万葉まほろば線)と和歌山線に分かれる所に高田城がありました。遺構は残っていませんが城の歴史については築城から破城まで分かっている、なかなか貴重な城です。

■築城
永享4年(1432)、足利義教(嘉吉の乱で赤松満祐に討たれた将軍)の命により、当麻兵庫守為貞が高田城を築城します。城主は嫡子で9歳だった為秀がつきました。当麻氏(高田氏)は一乗院方の国民です。

■戦乱
文正元年(1466)高田氏は応仁の乱では畠山政長方でした。対立する畠山義就&越智家栄によって高田城・布施城が攻められ落城します。敗れた高田氏は、筒井氏らと箸尾城に入ったようです。高田城には越智方が入りました。あとは目まぐるしく敵とくっついたり、いろいろと起きます。ベストセラーとなった呉座勇一の『応仁の乱―戦国時代を生んだ大乱』(中公新書)の通りですね。

永禄11年(1568)に織田信長が足利義昭を擁して上洛します。この時に松永久秀が信長によって大和守護に任じられます。髙田氏は松永久秀についたようで、今度は敵対する側となった筒井氏らに攻められ、松永久秀の救援により解放されます。その後、辰市合戦で松永久秀が筒井に敗れるなど紆余曲折がありました。筒井順慶が大和守護になり、松永久秀は信長に刃向かい信貴山で最後を遂げます

■破城
天正8年(1580)織田信長が筒井順慶に命じ大和郡山城を残し、他の大和にあった諸城を破却することになり高田城もこの時に破城となりました。

備中浅尾陣屋

備中浅尾陣屋
備中浅尾陣屋

総社駅の北にあるのが浅尾陣屋跡。浅野藩の本殿ですが、一般の陣屋と違って丘陵の上にあり、土塁などもあって山城のような造りになっています。戦国の気風が残っている時に造ったのでしょう。

浅尾藩の藩主は蒔田氏で本貫はどうも伊勢の雲出のようです。蒔田広定は関ヶ原の戦いでは、西軍に属して、西軍が占領した伊勢安濃津城に駐屯していました。ところが西軍が負け、高野山に蟄居します。岳父が小説「九十三歳の関ヶ原 弓大将大島光義」でも有名な弓の名手・大島光義であり、いろいろと取りなしてくれたことから備中浅尾1万石の領します。

幕末、蛤御門の変の時には京都見回り組を担当し、長州を撃退します。このことが遠因なのか慶応2(1866)年に長州藩第二奇兵隊を抜けた浪士達により、倉敷代官所と一緒に陣屋が焼き討ちされてしまいます。いつも負け組に組するんですね。陣屋は十分に再建されないまま明治維新を迎えることになります。

作山古墳

作山古墳
作山古墳

備中国分寺の近くにあるのが作山古墳という巨大前方後円墳。

中に入れますが全国第10位の規模なんで、ある意味、登山ですね。古墳時代中期の5世紀中頃に造られたとみられ被葬者は吉備の首長でしょう。雄略大王などが活躍していた時代です。

大和朝廷の祖となったと考えられる纏向遺跡には全国各地から人が集まり人工都市が造られました。吉備も大きな役割を果たしていたようで、かなり力があったようです。ですので造山古墳や作山古墳などの巨大古墳ができたようです。

■鬼退治で吉備がやっつけられる
岡山といえば桃太郎ですが、伝説の元になったのが吉備津彦命。出身は奈良県磯城郡田原本町で、四道将軍の1人として吉備に派遣され温羅という鬼を倒したことになっています。どうも大和朝廷と吉備が不穏な関係になって攻められた逸話ではないかという説もあります。

備中国分寺

備中国分寺
備中国分寺

鬼ノ城に登った後、レンターサイクルで散策へ。よく観光ポスターに登場するのが備中国分寺の五重塔です。現在の建物は江戸時代中期(1844年)頃に再建されたものですが岡に建っているので、なかなかの撮影ポイントになっています。吉備路サイクリングロードというのが整備されていて快適に走れます。

聖武天皇が全国に造ったのが国分寺です。他にも奈良の大仏を作りました。費用を捻出するために出したのが墾田永年私財法です。律令国家ですので、土地は国のものでしたが、これを根底から崩す法律でした。開墾した田は永久に私有できることにしました。

目論見は開墾した田からは税収が入りますので、短期的に見ると奈良の大仏や国分寺はできましたが長い目で見ると荘園制度や土地を守るための国人が出始め、武士が台頭するきっかけになってしまいます。

確定申告

確定申告
確定申告

朝から家にこもって、ひたすら確定申告。E-Taxですが毎年、進化していて、だいぶ分かりやすくなりました。
初期の頃なんかユーザーがJavaをインストールしたり、いろいろなソフトの設定をしないと使えないと、とんでもない代物でしたが、まあまあ分かりやすくなっています。
とりあえず確定申告が終了したので、次は合同会社の決算をしないと、こっちがなかなか大変です。

川原寺

川原寺
川原寺

岡寺から坂を降りてくると右に見えるのが川原寺跡です。発掘調査され一塔二金堂式の伽藍配置が復元されています。川原寺の右奥にあったのが飛鳥板蓋宮で、焼けた時に仮宮として川原宮が造られ、岡本宮に移った後に川原宮跡地に川原寺が創建されたと伝わっています。

城登りで疲れ果てましたので飛鳥板葺宮は素通りです。

お寺の奥に見えるのが甘樫丘。そう蘇我蝦夷の邸宅があった所です。飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿がクーデター(乙巳の変)で殺された当日、この辺りは大騒ぎとなり、蘇我を攻める軍隊が終結していたでしょう。「韓人が鞍作(入鹿)を殺した!」という古人大兄皇子の発した言葉が、古代史の謎として諸説を生み出すことになります。