淡河城西付城

淡河城西付城

淡河西付城

淡河城の南南西に築かれた付城です。天正7(1549)年に織田信長が越前衆と丹羽長秀に淡河城を攻める付城を構築するように命じましたが実際に付城を造ったのは秀吉のようです。三木合戦では淡河城の城主である淡河弾正は三木城の別所長治に味方し、淡河城は毛利方の花隈から三木城への兵糧の中継基地になっていました。

淡河城西付城の土塁などはずいぶん低くなっていますが、3つの郭から構成されており土橋なども残っていました。秀吉は3つほどの付城を造り、淡河城は落ち、三木城への補給路の一つが閉ざされることになります。三木の干殺しと呼ばれる三木城の周りに、たくさんの付城が造られて国史跡になっていますが。三田城にしろ淡河城にしろ付城で囲んで戦うというのが織田信長の常道でした。

滝野氏居館跡

滝野氏居館跡

柏原城の隣に滝野氏居館跡があります。鎌倉時代、名張には黒田荘という荘園があり、ここの荘官だったのが大江氏で末裔が百地氏、滝野氏になったと伝わっています。第二次天正伊賀の乱では百地氏、滝野氏などの伊賀衆が柏原城に集結し、織田信長に対して最後の戦いを挑みました。

■土塁は仕寄りだった
柏原城の戦いはけっこう調査が進んでいるようで、滝野氏居館跡は何もない敷地跡になっていますが柏原城の方角にだけ土塁が築かれています。織田軍が攻めるために作った仕寄り跡と案内には出ていました。仕寄りとは竹を束にした防御壁を置き、被害を抑えながら前進するなど攻城戦での基本です。真田丸の戦いでは徳川方は塹壕を掘り、高台を作って真田丸に向かって銃を撃っていました。織田軍は柏原城の周りに仕寄りの土塁を築き、かなり肉薄した戦いを展開していました。

藤堂高虎・京極高知陣跡

藤堂高虎・京極高知陣跡

福島正則陣跡の後ろに布陣した第二陣にあたります。一緒の陣跡になっていますが、それぞれ3千ちかい兵を擁していたので隣同士で布陣していました。藤堂高虎は黒田長政とともに西軍の切り崩し工作を行い、家康の勝利に貢献します。七度、主君を変えたとよく言われますが、戦国時代、転職は当たり前。藤堂高虎は豊臣秀長(秀吉の弟)には心酔していたようで、よく仕え、亡くなってからも養子を支えました。身長が190cmほどだったとも言われています。

■京極高知
京極高知は近江佐々木家につながる名門です。兄が京極高次で大津城に籠り、立花宗茂ら西軍を釘付けにして関ケ原の戦いで兵力を減らす貢献します。京極高知は藤堂高虎と大谷隊と激突して功をあげ、宮津藩の初代藩主となります。京極氏の紋は平四つ目結で、目結紋系を持つのは佐々木氏の末裔になります。

■白餅
藤堂高虎の紋は「城持ち」をかけた3つの白餅です。若く金がない時に三河・吉田宿の茶屋で餅を無銭飲食し、事情を聞いた店主から路銀までもらって助けてもらいました。この恩を忘れず餅を旗印にしてがんばり、大名になった時に茶屋を訪れ餅代を返却しました。講談「藤堂高虎、出世の白餅」などで有名な話ですが、あながち創作でもなく、津藩の参勤交代では藩祖にあやかって吉田宿で餅が献上されていたようです。

恭仁京

恭仁京

甲賀へ行くには草津駅経由と柘植駅経由の2つがあります。たまには柘植駅経由にしようと奈良駅から加茂駅まで出たらJR関西線が運休していました。火曜日の昼間時間帯に集中保守工事をするそうで、人手不足で昼にするしかないそうです。そんなん奈良駅で告知してよ!と加茂駅で言っていたら帰りに奈良駅で告知されていました。代行バスが出るそうですが時間がかかるので甲賀はあきらめて恭仁京巡りへ変更。

■恭仁京
聖武天皇が平城京を出て謎の彷徨を行います。九州で藤原広嗣が乱を起こし、疫病が流行する不穏な世の中で、もう一度、律令体制の初心に皆を戻すために壬申の乱の道をたどったのが真相のようです。もう一つ、廬舎那仏(いわゆる大仏)と各地に国分寺を建立して日本中を仏教バリアで疫病から守る構想でした。彷徨の最後は平城京に戻らずに恭仁京を作って遷都します。唐で西の都「長安」に対して東の都「洛陽」があったのにならいました。留学帰りの玄昉や吉備真備から得た知識でしょう。

恭仁京近くの玉水に橘諸兄の本拠地があり、恭仁京の整備は橘諸兄が行いました。大極殿は平城京から移築されました。しかし甲賀寺での大仏建立がうまくいかなかったため平城京に戻りますが、恭仁京跡は国分寺として整備されることになり大極殿はそのまま金堂として再利用されます。新たに塔が建てられます。今は礎石跡が残っています。

東高野街道をゆく(大和川)

東高野街道をゆく

大和川

国府跡から北上する時、直面するのが大和川です。現在の東高野街道は大和川にかかる橋になっていて、橋のたもとに大和川付け替えの碑がありますが、草むらに埋もれていました。大和川が付け替えられたのは宝永元年(1704)年ですので300年ちょっと前になります。洪水対策で古代から付け替えの挑戦が続いています。有名なのが和気清麻呂の付け替えですが結局、失敗しました。近鉄・河堀口駅(こぼれぐちえき)や大坂の陣の舞台となった茶臼山の河底池に工事の名残があります。和気清麻呂の掘った後は大坂夏の陣の頃まで残っていたようで堀代わりに使われたようです。

江戸時代となり中甚兵衛の尽力により付け替えが実現しました。近鉄・吉田駅近くに中甚兵衛の銅像があります。江戸以前は大和川がたくさんの川に分岐して北上していましたので、東高野街道はもう少し東側で川を渡っていたはずです。とりあえず現在の東高野街道を渡り近鉄・安堂駅から帰ってきました。

東高野街道をゆく(薄田兼相の墓)

薄田兼相の墓

薄田兼相(すすきだ かねすけ)は秀吉の馬廻り衆でしたが大坂冬の陣で失態をおかします。剛勇の武将として有名だったので豊臣方の期待も高く、阿波座近くにあった博労ヶ淵砦の守将を命じます。ところが、遊女屋で遊んでいる最中に、砦を徳川方に陥落されてしまいます。

味方からは「橙武者」と軽蔑されてしまいます。意味は橙(だいだい)は大きくて色はいいが、正月の飾りにする以外になんの役にもたたない、です。面白い話なんですが1次資料には出てこないのでガセネタかもしれません。一説には薄田兼相は歌舞伎で有名な豪傑・岩見重太郎とも言われています。

夏の陣では道明寺の戦いに出陣し、誉田八幡宮から出撃します。先に出陣した後藤又兵衛に続いて、戦地に到着する予定でしたが濃霧で進軍が難しく、薄田兼相が到着した時には後藤又兵衛は討ち死にしていました。薄田隊も徳川軍に各個撃破され薄田兼相は討ち死にします。東高野街道からちょっと離れたところにお墓があります。

渡辺さんの故郷

渡辺津

天満橋駅近くの大川に渡辺津の碑が建っています。ここが全国の渡辺さんや渡部さんの故郷となる渡辺津があったところです。渡辺津とは大川にあった古代の港で、熊野古道もこの渡辺津が起点でした。

■源綱が渡辺さんのルーツ
平安時代後期には源綱がこの地に住んで渡辺を名字とし、渡辺氏を起こします。大江山の酒呑童子退治で知られる源頼光に仕えた四天王です。渡辺綱の子孫は渡辺党と呼ばれる武士団となり、港を背景に水軍として日本全国に散らばります。これが全国に拡がる渡辺さんのルーツとなります。北九州にわたった一族は松浦党となります。

■秀吉が移転させる
この渡辺津にあったのが坐摩(いかすり)神社。秀吉が大坂城を築城する時に坐摩神社および渡辺党に退去を命じます。坐摩神社は本町駅の南にある現在の久太郎町に移転しました。坐摩神社の境内は渡辺町と呼ばれていましたが久太郎町に統合されようとした時に待ったがかかり、久太郎町渡辺という珍しい番地となります。

墾田永年私財法

今の教科書って、私たちの頃とけっこう変わっているんですね。

墾田永年私財法、「こんでんえいねんしざいほう」という長たらしい名前で聖武天皇が出した勅(天皇の名による命令)です。これ以前に三世一身法が出され。自分で新しく開墾した土地(墾田)は孫までの3代は私財として扱えるよという内容です。

墾田永年私財法

もちろん税金は納める必要があります。ちょうど孫の代になった頃、このまま切れてしまうと土地は国に返されるので、ほったらかしになり荒れる耕地が増えるのではと危惧され、そのままずっと私有にしてええでという法律が出されました。これが墾田永年私財法です。

■ポジティブな墾田永年私財法
墾田永年私財法で公地公民制が崩れ、豪族や社寺が開墾を進めて土地私有化をはかり、これが荘園になっていくので、ネガティブなイメージで講義を受けましたが、今の教科書では評価が変わっているんですね。

当時は、とにかく荒れ地が多く、生産できる土地が不足していました。また天平の疫病大流行で大打撃を受けていました。日本に仏のバリアをはって疫病退散するために奈良の大仏と国分寺ネットワークを作ることにもなります。墾田永年私財法は農民にとっては収入が増えるのでモチベーションアップになり、国にとっては耕作地が増えて税金が増える、まさにウィンウィンの法律でした。橘諸兄あたりが立案したようです。

おやぢの会

法善寺

「おやぢの会」なる、とっても平均年齢が高い会があります。

もともとはオブザーバー参加だったのが、いつの間にか正式メンバー扱いになっていて、おかしいなあ。もちろん平均年齢を下げる方に寄与しています(笑)。

宴会場所は法善寺横丁近くの博多廊で、この暑い中、メインはモツ鍋でした。あいかわらずオフレコ満載の話題で盛り上がっておりました。

店を出るとインバウンドを含めた観光客でミナミの街は一杯。「串かつだるま」には長蛇の列ができていました。そんな有名店に行かなくても、ミナミだったら串カツを出す店はぎょうさんありまっせえ!

大江広元の墓

いざ鎌倉シリーズ

大江広元の墓

三浦氏のやぐら近くにあるのが大江広元の墓。「鎌倉殿の十三人」では栗原英雄氏が演じていました。源頼朝は力で勝っても文章能力がない武士では政権運営はできないと考えており、京都から落ちぶれてはいるが能力のある官僚を招きます。それが大江広元で、頼朝亡き後の承久の乱では鎌倉武士の鎌倉での迎撃論を抑え込んで、出撃するように説得します、これがなければ歴史が変わっていたかもしれません。ここで武家政権が盤石となります。

大江広元の本当の墓は伝として伝わっていますが、ここは島津が江戸時代に建てたもの。大江広元の息子の一人が相模国毛利荘(厚木市)をもらって毛利季光と名乗っていました。武士になると宣言し、毛利家の祖先となります。文官より武官のほうが格上だったようです。島津忠久は島津氏の祖で、一説では源頼朝の子ではないかと言われています。そこで大江広元の墓を中心に両側に毛利季光、島津忠久の墓が並んでいます。島津による、「うちはすごいんだ~あ」というアピールでしょう。