東高野街道をゆく(大和川)

東高野街道をゆく

大和川

国府跡から北上する時、直面するのが大和川です。現在の東高野街道は大和川にかかる橋になっていて、橋のたもとに大和川付け替えの碑がありますが、草むらに埋もれていました。大和川が付け替えられたのは宝永元年(1704)年ですので300年ちょっと前になります。洪水対策で古代から付け替えの挑戦が続いています。有名なのが和気清麻呂の付け替えですが結局、失敗しました。近鉄・河堀口駅(こぼれぐちえき)や大坂の陣の舞台となった茶臼山の河底池に工事の名残があります。和気清麻呂の掘った後は大坂夏の陣の頃まで残っていたようで堀代わりに使われたようです。

江戸時代となり中甚兵衛の尽力により付け替えが実現しました。近鉄・吉田駅近くに中甚兵衛の銅像があります。江戸以前は大和川がたくさんの川に分岐して北上していましたので、東高野街道はもう少し東側で川を渡っていたはずです。とりあえず現在の東高野街道を渡り近鉄・安堂駅から帰ってきました。

東高野街道をゆく(薄田兼相の墓)

薄田兼相の墓

薄田兼相(すすきだ かねすけ)は秀吉の馬廻り衆でしたが大坂冬の陣で失態をおかします。剛勇の武将として有名だったので豊臣方の期待も高く、阿波座近くにあった博労ヶ淵砦の守将を命じます。ところが、遊女屋で遊んでいる最中に、砦を徳川方に陥落されてしまいます。

味方からは「橙武者」と軽蔑されてしまいます。意味は橙(だいだい)は大きくて色はいいが、正月の飾りにする以外になんの役にもたたない、です。面白い話なんですが1次資料には出てこないのでガセネタかもしれません。一説には薄田兼相は歌舞伎で有名な豪傑・岩見重太郎とも言われています。

夏の陣では道明寺の戦いに出陣し、誉田八幡宮から出撃します。先に出陣した後藤又兵衛に続いて、戦地に到着する予定でしたが濃霧で進軍が難しく、薄田兼相が到着した時には後藤又兵衛は討ち死にしていました。薄田隊も徳川軍に各個撃破され薄田兼相は討ち死にします。東高野街道からちょっと離れたところにお墓があります。

渡辺さんの故郷

渡辺津

天満橋駅近くの大川に渡辺津の碑が建っています。ここが全国の渡辺さんや渡部さんの故郷となる渡辺津があったところです。渡辺津とは大川にあった古代の港で、熊野古道もこの渡辺津が起点でした。

■源綱が渡辺さんのルーツ
平安時代後期には源綱がこの地に住んで渡辺を名字とし、渡辺氏を起こします。大江山の酒呑童子退治で知られる源頼光に仕えた四天王です。渡辺綱の子孫は渡辺党と呼ばれる武士団となり、港を背景に水軍として日本全国に散らばります。これが全国に拡がる渡辺さんのルーツとなります。北九州にわたった一族は松浦党となります。

■秀吉が移転させる
この渡辺津にあったのが坐摩(いかすり)神社。秀吉が大坂城を築城する時に坐摩神社および渡辺党に退去を命じます。坐摩神社は本町駅の南にある現在の久太郎町に移転しました。坐摩神社の境内は渡辺町と呼ばれていましたが久太郎町に統合されようとした時に待ったがかかり、久太郎町渡辺という珍しい番地となります。

墾田永年私財法

今の教科書って、私たちの頃とけっこう変わっているんですね。

墾田永年私財法、「こんでんえいねんしざいほう」という長たらしい名前で聖武天皇が出した勅(天皇の名による命令)です。これ以前に三世一身法が出され。自分で新しく開墾した土地(墾田)は孫までの3代は私財として扱えるよという内容です。

墾田永年私財法

もちろん税金は納める必要があります。ちょうど孫の代になった頃、このまま切れてしまうと土地は国に返されるので、ほったらかしになり荒れる耕地が増えるのではと危惧され、そのままずっと私有にしてええでという法律が出されました。これが墾田永年私財法です。

■ポジティブな墾田永年私財法
墾田永年私財法で公地公民制が崩れ、豪族や社寺が開墾を進めて土地私有化をはかり、これが荘園になっていくので、ネガティブなイメージで講義を受けましたが、今の教科書では評価が変わっているんですね。

当時は、とにかく荒れ地が多く、生産できる土地が不足していました。また天平の疫病大流行で大打撃を受けていました。日本に仏のバリアをはって疫病退散するために奈良の大仏と国分寺ネットワークを作ることにもなります。墾田永年私財法は農民にとっては収入が増えるのでモチベーションアップになり、国にとっては耕作地が増えて税金が増える、まさにウィンウィンの法律でした。橘諸兄あたりが立案したようです。

おやぢの会

法善寺

「おやぢの会」なる、とっても平均年齢が高い会があります。

もともとはオブザーバー参加だったのが、いつの間にか正式メンバー扱いになっていて、おかしいなあ。もちろん平均年齢を下げる方に寄与しています(笑)。

宴会場所は法善寺横丁近くの博多廊で、この暑い中、メインはモツ鍋でした。あいかわらずオフレコ満載の話題で盛り上がっておりました。

店を出るとインバウンドを含めた観光客でミナミの街は一杯。「串かつだるま」には長蛇の列ができていました。そんな有名店に行かなくても、ミナミだったら串カツを出す店はぎょうさんありまっせえ!

大江広元の墓

いざ鎌倉シリーズ

大江広元の墓

三浦氏のやぐら近くにあるのが大江広元の墓。「鎌倉殿の十三人」では栗原英雄氏が演じていました。源頼朝は力で勝っても文章能力がない武士では政権運営はできないと考えており、京都から落ちぶれてはいるが能力のある官僚を招きます。それが大江広元で、頼朝亡き後の承久の乱では鎌倉武士の鎌倉での迎撃論を抑え込んで、出撃するように説得します、これがなければ歴史が変わっていたかもしれません。ここで武家政権が盤石となります。

大江広元の本当の墓は伝として伝わっていますが、ここは島津が江戸時代に建てたもの。大江広元の息子の一人が相模国毛利荘(厚木市)をもらって毛利季光と名乗っていました。武士になると宣言し、毛利家の祖先となります。文官より武官のほうが格上だったようです。島津忠久は島津氏の祖で、一説では源頼朝の子ではないかと言われています。そこで大江広元の墓を中心に両側に毛利季光、島津忠久の墓が並んでいます。島津による、「うちはすごいんだ~あ」というアピールでしょう。

茅ヶ崎館

茅ヶ崎館

江ノ島で過酷なロードが終わった後は茅ヶ崎駅へ移動。海外沿いにある茅ヶ崎館へ。1899年(明治32)に日本郵船・機関長だった人が作った別荘です。現在は和室4室の旅館として営業しており、明治時代の唐傘天井風呂などレトロな旅館になっています。定員12名なので宿を借り切って、まずは旅館内のツアー。樹木希林の「命みじかし、恋せよ乙女」の撮影で使われた和室などを当時のエピソードを聞きながら見学。樹木希林は茅ヶ崎館の女将を演じ、これが遺作になりました。

松竹の撮影所が蒲田から大船に移ったこともあり、東京物語や秋刀魚の味で有名な小津安二郎監督の定宿でもありました。他にも、この宿は本が書けると新藤兼人監督、井筒和幸監督、是枝裕和監督らがよく利用していたそうです。

晩御飯は18:30~21:00頃までの宴会で、最後にすき焼きが出てきて旅館の人が焼いてくれるのですが、煮詰まった所にカレー粉を加えた「カレーすき焼き」は小津監督が自ら来客に振舞ったそうで、名物料理となっています。大変、おいしゅういただきました。

江ノ島

江ノ島

ATコマンド、NifTerm、ComNifty、魔法のナイフ、茄子Rという呪文のような言葉を聞いて、まったく違和感がない一定集団が日本に存在します。この集団の中にさらにFLicという変なフォーラムに参加していた集団がいました。この集団が、さらに細分化し、全国にあった中小企業診断士のオフライン勉強会に参加しているメンバーの残党がいまだに年1回、集まっています。

今年島は江ノの大橋のたもとに集合。江ノ島って初めて行ったのですが坂道と階段だらけなんですね。いやな予感はあたり、ひたすら登ることになります。眺めはいいんですが、炎天下で歩くには苦行です。奥津宮に到着して、今度は下りです。オイオイ、これをまた登って帰るのかなと思ったら、岩屋から船が出ているんですね。観光客で一杯でしたが船もピストン輸送しているので、しばらく待つと江ノ島を脱出できました。

舎人親王邸宅跡

日本の正史である「日本書紀」を編纂した人は誰?

もちろん舎人皇子で、720年に日本書紀を完成させました。日本史で習いましたね。

お父さんは天武天皇で、兄弟は高市皇子、草壁皇子、大津皇子、忍壁皇子、長皇子、新田部親王と「天上の虹」登場人物がオンパレードです。新田部親王、長屋王とともに皇親政権を樹立しますが、やがて藤原氏側になり、結果的に藤原政権の成立に協力します。

奈良そごう

この舎人親王の邸宅跡が先日、発見されました。木簡などは見つかっていませんが、4町分もある広い敷地の建物跡が発見され、有力視されています。場所は奈良市役所近くの佐保川沿いで当時の左京三条三坊四坪です。建設現場の発掘調査で見つかり、既に埋め戻されています。平城京に隣接していた長屋王の邸宅跡があった奈良そごう(現ミ・ナーラ)から徒歩5分ですので、平城京へ出仕するには交通至便なところでした。

三木鉄道 廃線跡

法界寺を降りて加古川三田線の道路へ出ると、すぐ隣に「別所ゆめ街道」という遊歩道があります。これって三木鉄道の廃線跡です。厄神駅(加古川線)と三木駅を結ぶ路線で、もともとは国鉄の路線だったんですね。第三セクターで存続していましたが、三木市から神戸市内へ向かう人は神戸電鉄粟生線を使うので乗客の減少が続いて2008年に廃線となりました。

三木鉄道 廃線跡
三木鉄道 廃線跡

三木市から加古川へ向かう時はショートカットになりますが、神戸のベッドタウンなので難しかったのでしょうね。もともとは三木駅から川を渡ったところにある別所駅が始発駅でした。ここに公園が作られて西這田駅跡まで「別所ゆめ街道」という遊歩道ができ、駅跡には碑などがあって楽しめます。