旧東海道

街道をゆく 旧東海道

東海道
東海道

東海道は古代からありましたが徳川家康が五街道として整備しました。京都の三条大橋から江戸の日本橋を結ぶ街道です。近江には大津、草津、石部、水口、土山宿がおかれました。草津で中山道と分岐して伊勢との境である鈴鹿峠を目指します。鈴鹿峠を超えたところが関宿で古代に関所が置かれ、ここから東が関東でした。

石部宿あたりの東海道は古い町並みが残り、なかなか風情があります。

榎木大明神

空堀商店街近くにあるのが榎木大明神という小さな神社。

榎木大明神
榎木大明神

榎木大明神の向こうは道が落ち込んでいますが長堀通りが走っています。長堀という名前の通り、大坂城の南総構堀がありました。もう少し東にある南総構堀のさらに南側にあったのが真田丸で大坂城から切り離された出城でした。

万城目学氏の小説「プリンセス・トヨトミ」は、この小さな神社から始まります。風情がある神社で、説明をみると楠正成が植えた木だとあります。近くを熊野街道が通っています。

鴨川デルタ

賀茂川と高野川が合流するのが鴨川デルタ。ここから鴨川になって三条や四条に流れていきます。

鴨川デルタ
鴨川デルタ

森見登美彦の四畳半神話大系など色々な作品やドラマに登場する三角州です。明治の頃は三角州はもっと小さくって出町橋も河合橋も一本の長い橋だった時代でした。国立国会図書館に応仁元年から信長が活躍した天正期までの約120年間の京都の状況を考証し、作成された中昔京師地図があります。これをみると2つの川が合流していますが三角州はとっても小さいですね。
相国寺から南に流れる川があり東に90度曲がって、また南に90度曲がって流れているのは東京極川です。現在も今出川という地名で残っています。

東六甲砕石場

■太閤さんの城
大坂の陣で豊臣を滅ぼした徳川は秀吉が築いた大坂城を徹底的に破壊しようとします。石垣ごと土に埋めて、新たに石垣を造り直します。ところが宣伝としてはうまくいってなかったようで、昭和の初めまで大阪人は城の土台を『太閤さん』が造ったものと信じ込んでいました。

東六甲砕石場
東六甲砕石場

昭和34年に秀吉時代の石垣が地中から発見され、現存している石垣は徳川時代にものと分かりました。この時に大阪市からしばらく発表しないように要請があったそうで、理由は石垣が徳川製と分かると大阪市民がショックで倒れるからということでした。

■東六甲採石場
新しい大坂城を造るには大量の石垣が必要です。小豆島や石切にも砕石場がありますが、甲山近くにもあります。甲山森林公園に東六甲採石場があり、古墳時代から石切場だったようで石丁場の跡や、現地に放置された石材(残石)が数多く残っています。

仏性ケ原の頂上付近の斜面にも矢穴が残された石がたくさんありました。近くに仁川が流れていますが、高い山から石を降ろすのは大変だったでしょうね。仁川からは武庫川を通じて大坂城へ運んだのでしょう。

石切神社の夏祭り

お百度参りで有名な石切神社の夏祭り。正式には石切劔箭神社・夏季大祭で金、土、日と開催されています。散歩ついでにのぞいてきました。境内に太鼓台が入るのでお百度参りも中止になっています。今年は屋台も出ていました。

石切神社の夏祭り
石切神社の夏祭り

■饒速日尊とは
石切神社の祭神は饒速日尊(にぎはやひのみこと)と可美真手命(うましまでのみこと:ニギハヤヒの子供)ですので物部の神様です。めちゃくちゃ古い神社で文献では貞観7年(865年)に登場しています。菅原道真が遣唐使を白紙(894年)に戻したちょっと前ですね。

■本当の祭神は長髄彦?
石切神社は本当は長髄彦を祀っているのではという説があります。石切(i-si-kiri)はアイヌ語で「その・長い・彼の足」の意味になるそうで、ほんまですかいなあ。饒速日尊は神武天皇よりも先に大和へ天下った天神で、長髄彦の妹と結婚し、生まれたのが可美真手命で物部氏の先祖になります。饒速日尊は熊野から大和に入った神武天皇に協力し長髄彦を裏切って殺すことになります。

長髄彦は最初の朝敵となるためか正式に祭神にしている神社はなく、富雄にある添御縣坐神社の祭神・武乳速命がそうではないかと言われています。

120年前の亀の瀬トンネル

昭和6年に起きた亀の瀬の地すべりによって道路や線路は寸断されます。亀の瀬を通っていたのは国鉄・関西本線で山間の狭い場所ですから亀ノ瀬トンネル(隧道)が通っていました。もともと造られたのは大阪鉄道時代の明治25年(1892年)です。このトンネルも含めて知すべりで全て埋まってしまいます。

亀の瀬トンネル
亀の瀬トンネル

平成20年から始まった地すべり対策工事の一貫で排水トンネル工事の掘削推進中に、レンガ構造のトンネル下り線(大阪方面行き)を発見。ほぼ当時の原形をとどめた状態でした。煉瓦積ですが、側壁は強度が高いイギリス積みになっていて上部のアーチは長手積みになっています。

亀の瀬では地すべり見学会が行われていますが、120年前のトンネルを見ることができます。

リモート講座

昨日は岡山で講座を行い、一泊して今日は朝から津山城を登っているはずだったのが、リモートになってしまいました。

LEC梅田
LEC梅田

結局、LEC梅田に行ってリモート講座をして終わり。先日のセミナーもそうですが、大阪から出る仕事が、すっかりなくなってしまいました。新幹線も長い間、乗っていませんねえ。どっか遠いところのセミナーの仕事でも入らないかなあ

磐余若櫻宮

近鉄・桜井駅からまっすぐ南へ行くと谷という土地があり、ここの丘陵上に若櫻神社があります。戦国時代には城が造られ土塁跡がいまも残っています。

若櫻神社
若櫻神社

仁徳天皇の息子である第17代、履中天皇が皇后と磐余の市磯池で遊宴中に、桜の花が盃に落ちたことを機に宮を磐余稚櫻宮と名づけます。この谷にある若櫻神社ではないかと言われていましたが磐余池が発掘で見つかったことから、池ノ内の若櫻神社が濃厚です。

池ノ内の若櫻神社は磐余池跡から東に行った小高い丘の上にあります。階段を登ったところに社殿がありますが、大きな削平地が確保されており、城を造るには絶好の場所ですね。当時の大和朝廷はまだまだ安定していなかったので丘の上を宮にしたのかもしれません。磐余の市磯池は若櫻神社の東側にあった模様で、現在は田園地帯になっています。

藤堂高虎 出生地

尼子城のすぐ近くにあるのが藤堂高虎の生誕地で現在は公園になっています。

藤堂高虎像
藤堂高虎像

弘治2年(1556年)、藤堂高虎は犬上郡藤堂村の土豪・藤堂虎高の次男として生まれました。浅井長政、羽柴秀長、豊臣秀吉、徳川家康など一生に七回も主君を変えたといわれますが、当時は普通の感覚で、将来性がない主君は見限るものでした。ただ羽柴秀長(秀吉の弟)には気があったのか長く仕え、秀長が亡くなってから甥が継いだので、盛り立てますが、この甥も17歳の若さで死んでしまいました。もう武士をやめようと高野山に入りますが、惜しんだ秀吉が説得して復帰します。

■城の縄張りを規格化
藤堂高虎は巨体だったようで身長が190cmほどあったようです。藤堂高虎といえば城づくりの達人で江戸城、大坂城、今治城、伊賀上野城、津城などの縄張りを行いました。そして編み出したのが全国共通の縄張りです。戦国時代、防衛力を高めるために加藤清正の熊本城など複雑な縄張りが造られました。藤堂高虎は四角形で実用的な郭をつくり藩の政庁の用地を最大限使えるようにします。防衛は高石垣、層塔式天守、水堀、多聞櫓、枡形虎口などを組み合わせて実現します。

城の規格化ができたため生産性が向上します。江戸時代、国替えになっても城の作りはほぼ一緒ですので、すぐに使うことができます。

勝楽寺城

「チョー、ヤバい」婆娑羅大名である佐々木道誉の城が勝楽寺城です。佐々木道誉が家臣である高筑豊前守に命じて応安元年(1368年)に築城しました。戦国時代になると六角氏が支配したり、浅井長政側になったりと城主が変わり、最終的には永禄11年(1568年)に織田信長が攻めて落城しました。

勝楽寺城
勝楽寺城

勝楽寺横からひたすら山道を登っていくと勝楽寺城へ着きます。山上に広い削平地の郭がいくつも連なり、近江を一望できます。また畝状竪堀群がありました。眺めがよく荒神山越しに琵琶湖や竹生島、彦根城もよく見れます。