中之郷駅

中之郷駅

大阪から新快速に乗ると湖東周りの終点は近江塩津駅になります。近江塩津駅で乗り換えて敦賀へ行けます。木ノ本駅を出ると大きく左(西側)にカーブして余呉湖の隣にある余呉駅を経由して近江塩津駅になります。かっては木ノ本駅から、そのまま北上して中之郷駅、柳ケ瀬駅から柳ヶ瀬トンネルを通って敦賀駅を結んでいました。今は鉄道はなくなり北陸道が走っています。鉄道が残っていたら、湖北の山城に行くのに便利だったのに残念です。

昔、大阪から敦賀へ向かう時、永原駅-近江塩津駅間で電車の明かりが2、3秒消える時がありました。これが交直セクションです。直流区間(東海道線・湖西線)と交流区間(北陸鉄道)が交わるところです。けっこう最近まで残っていて2006年に直流化工事が完成しました。これで湖西線内は全て直流電化となり、湖西線を経由する新快速が敦賀駅まで延長されることになります。

高宮駅

彦根駅からガチャコン(近江鉄道)に乗って高宮駅へ。ここから多賀大社駅まで支線が出ています。といっても途中駅にはスクリーン前駅しかない短い路線です。新幹線からこの高宮駅の扇型ホームを見ることができます。四日市から出ている四日市あすなろう鉄道の日永駅が内部線と八王子線の分岐になっていて高宮駅と同様に扇形ホームになっています。

高宮駅
高宮駅

滋賀県は公共交通を維持する財源として交通税として利用者以外の県民からもお金を集める計画をしています。今は自家用車に乗っていても高齢化して免許返納となった時、公共交通機関がなくなって困るのは自分自身ですからね。Maasの動きもありますがオンデマンドで全国的に利用できるようになるには、まだまだ時間がかかるでしょう。

忍者列車

伊賀へ行くなら伊賀鉄道です。昔、西岡たかしが上野市(うえのまち)というフォークを歌っていて、「私が訪ねた上野市(うえのまち)...桑町、茅町、広小路 も少しゆられて上野市」という歌詞がでてきます。1975年発売なんで50年ちかく前ですねえ。

伊賀鉄道
伊賀鉄道

2両編成ですが、時たま忍者列車が走っています。松本零士がデザインした列車で1997年に登場したので、もう25年になるんですねえ。

水間鉄道

水間鉄道
水間鉄道

貝塚駅と水間観音駅を結ぶのが大正時代にできた水間鉄道です。水間観音への参詣鉄道でした。バブルの時に不動産事業に乗り出したのですがバブル崩壊で倒産。グルメ杵屋が支援をすることになり、子会社になっています。

2両編成のワンマン運転で1時間に2本の割合で走っています。貝塚駅を出発すると大きく左に急カーブします。もともとカーブの先に海塚駅があり、ここが起点でしたが南海・貝塚駅ができたことで乗り入れするために急カーブになったようです。

貝塚から水間観音駅間は15分で、けっこう短く、単線のため途中の名越駅で行き違いします。千石堀城の最寄り駅になります。関西のローカル線ながらICカードが使えるのがいいですね。

京都駅

京都駅前にある羅城門模型と京都タワーです。

羅城門と京都駅
羅城門と京都駅

大学1回生の頃はまだ京都市電が走っていて外周線(九条ー東大路-北大路ー西大路)だけ残っていました。京都駅前からは七條通りを通って東山七条で外周線に接続していましたので時たま市電に乗って烏丸車庫で降りていました。ちょうど一回生の1978年9月30日に廃線になってしまいます。モータリゼーションはわかりますが風情があってよかったのに残念です。

国鉄時代、津から京都まで急行1本で行けた時代がありました。始発はどこか覚えていませんが紀勢本線を走って亀山へ出て、そのまま関西本線を柘植まで走り、今度は草津線に入って草津に出て、最後は東海道線で京都が終着駅です。近鉄だと中川と八木で乗換が必要でしたので本数は少なかったですが便利でしたねえ。

廃線跡をゆく 嵯峨野トロッコ列車

廃線跡をゆく

山陰本線の廃線跡に作られた嵯峨野トロッコ列車です。チケットがとれたので亀岡から嵐山まで乗ってきました。保津川沿いを進んでいきますが、ちょうど保津川下りをしているのが見られます。保津川下りの船は嵐山でトラックに乗せられ、亀岡まで運ばれるところを見かけます。

保津川は奈良時代から丹後の材木を運ぶために材木を筏にして流していました。江戸時代に角倉了以が保津川を開削して船が通れるようにします。最初に船に乗って保津川下りを楽しんだのが角倉素庵(角倉了以の息子)です。

嵯峨野トロッコ列車、秋だとライトアップや紅葉が楽しめますがチケットをとるのが大変ですね。

大仏鉄道2

2004年、知的生産の技術研究会・関西で大仏鉄道研究会に「なぜ大仏鉄道は消えたか?」というタイトルでセミナーをしてもらって以来、気になっていたので出かけてきました。加茂駅から大仏駅までを踏破するコースを歩いてきました。加茂駅から赤橋あたりまでは廃線跡が小道で残っていたり、レンガ造りの橋梁が残っていたり牧歌的な雰囲気です。ところが奈良に近づくと道路沿いを廃線跡をたどることになります。

大仏鉄道
大仏鉄道

大仏鉄道は山と谷が入り込んだコースで、奈良の手間に黒髪山越えという急勾配があり、当時の蒸気機関車には最大の難所でした。黒髪山から降りた所に大仏駅があったため、蒸気機関車にブレーキをかけて駅に止めるのが大変だったそうです。当時、真っ赤な蒸気機関車が走っていたそうで、大仏鉄道研究会でも探しているのですが、まだ写真が見つかっていません。

駅前に人力車がとまっていた大仏駅跡は大仏鉄道記念公園になっています。ここから佐保川を超えて奈良駅まで接続されました。

大仏鉄道

大仏鉄道って、ご存じですか?

大仏鉄道
大仏鉄道

100年以上前の明治時代の9年間、加茂駅から大仏駅まで、後に延伸して奈良駅まで走っていた路線です。目的は名古屋方面から奈良の大仏への観光客の誘致を図るためで大成功をおさめます。大仏鉄道が開通した朝日新聞のトップ記事は遼東半島の三国干渉という時代です。

この頃の西日本は私鉄が競争していた時代で、大仏鉄道の親会社である関西鉄道も奈良まで接続を目標にしましたが、大阪の湊町から奈良まで接続していた大阪鉄道との競争で奈良まで入れず、現在の奈良育英高校近くに大仏駅を作りました。一条通りから東大寺までは歩いて20分ほどです。大仏鉄道は現在の新幹線や近鉄と同じ広軌で作られていました。

大仏鉄道ですが急勾配の山を越える路線でコストがかかること、また平行して走る奈良鉄道(今のJR奈良線)の買収に成功したこともあり、わずか9年で廃線となってしまいました。時代は日清、日露戦争の頃で兵員や物資輸送に私鉄を乗り継いででは問題があるため鉄道国有化施策がスタートする、そんな時代でもありました。

C57

JR加茂駅の近くに保存展示されていたのがC57。懐かしいですね。Cなので動輪が3つあります。ちなみにD51はDなので動輪が4つになります。中学校への通学でディーゼル機関車が引っ張る客車に乗っていましたが、時たま蒸気機関車の時があり迫力がありました。

C57
C57

紀勢本線は単線なので駅と駅の間は閉塞区間になります。閉塞区間に入る時は必ず通票がはいった輪っか(タブレット)が必要でした。急行や特急が駅を通過する時はホーム入口あたりで、そこまでの閉塞区間の輪っかを立っている棒にひっかけて、ホームの端あたりで駅員が高く、次の閉塞区間の輪っかをあげ、車掌が通り過ぎながら腕で掴む職人技を見ることができました。今は信号にすべて変わってしまいましたね。

蒸気機関車では機関助士がこの輪っかを渡したり受け取ったりしていて迫力ありました。

紫香楽宮跡駅

紫香楽宮の最寄り駅は信楽高原鉄道の紫香楽宮跡駅。JR草津駅の貴生川駅から二両編成の列車に乗り込みます。車内はほぼ満員ですが、紫香楽宮跡駅で降りたのは私一人だけ。ローカル線アルアルで一番前のドアしか開かないので前の方にはいたのですが、さすがに誰も降りないのには驚きました。

紫香楽宮跡駅
紫香楽宮跡駅

紫香楽宮や甲賀寺巡りをする人はいないようで、巡ってみても車で来ている人もいませんでした。そんなに信楽のタヌキがいいんですかねえ。帰り紫香楽宮跡駅から乗り込んだのも私一人だけ。車内は信楽観光した乗客で満員でした。