吉田城

吉田城

せっかく豊橋まで出たので吉田城へ。

もともとは牧野古白(こはく)が築いた今橋城でしたが松平の支配下になると酒井忠次が東三河を統治する拠点としました。西三河の筆頭は石川数正です。三方ヶ原の戦いで家康に勝った武田信玄は家康の本拠地である三河へ進撃します。また水軍を組織して三河を攻めはじめます。陸と海から攻められた家康は吉田城に入って信長に援軍を要請しましたが、信長は機内の戦いで身動きがとれない状況でした。ところが信玄はなぜか撤退をはじめます。結局は病から死亡し、家康はなんとか虎口を脱します。

家康が関東に移封されると池田輝政が入って改造を始めます。この当時の城の遺構が残っていて本丸を中心に堀切や土塁が残っています。二の丸の土塁も低いながら残っていました。シンボルとして豊川に面する鉄櫓(くろがねやぐら)が復興されています。

馬場信房の墓

馬場信房の墓

長篠城の近くに馬場信房の墓があり、信房の首を埋めたと伝えられています。馬場信房は武田信虎、信玄、勝頼の三代に渡り仕えた重臣で、三方ヶ原の戦いにも参加し、徳川軍を浜松城下まで追い詰めました。

長篠の合戦では鉄砲の弾という物量戦と武田軍が攻めつかれたところへ信長が温存していた兵力をぶつけたため武田軍は崩れます。馬場信房は撤退する武田軍の殿隊をつとめ、武田勝頼が戦場を脱出したのを確認し、そのまま引き返して敵方に突入し戦死します。62歳でした。

武田家の武将の討死は撤退時が多く、勝頼を逃がすために身代わりになったようです。勝頼は決して凡庸な2代目ではありませんでした。真田信綱・昌輝兄弟も長篠の戦いで討死にしたため、真田昌幸が家督を継ぐことになり真田丸につながっていきます。長篠の合戦は武田家に致命的な影響は与えませんでした。

■武田家滅亡の引き金
高天神城を家康が攻め、武田勝頼は高天神城の後詰にいけず、落城したことで勝頼の信頼が落ちます。信長は勝頼と和睦交渉しており、交渉を長引かせて救援にいけないよう時間稼ぎしていました。高天神城が落ちてから勝頼が見捨てたと宣伝する心理戦でした。

また上杉謙信の跡目争いで勝頼が上杉景勝に加担したことが致命傷になりました。上杉景虎を敵に回すことは景虎の兄である北条氏政を敵にしてしまい、これが武田家滅亡へつながっていきます。

設楽ヶ原

設楽ヶ原

徳川家康・織田信長連合軍と武田勝頼軍が戦った設楽ヶ原です。現地へ行ってみたら思った以上に狭い場所で両軍が対峙した連呉川も小さな川でした。互いがよく見えたでしょう。観光用に馬防柵が作られていました。

信長の鉄砲で有名な戦いですが、鉄砲の装備率を見ると武田勝頼と信長との差はあまり、ありませんでした。問題は弾で信長、家康軍はタイから輸入した鉛を使っていました。武田領に金山はありましたが鉛山はなく、武田軍は最初に鉄砲を討った後に弾が少なくなるため突撃したようです。

■信長の経済封鎖
武田側の長峰砦跡から見つかった弾は中国からの渡来銭と成分が同じで銅銭を材料にしていました、また神社に賽銭の中の悪銭を上納させて弾にしようと命じていました。信長側はは堺で硝石をおさえ伊勢商人にも東国に物資を流してはいけないと圧力をかけていました。また大津、草津を抑えていたので琵琶湖を中心に東国への経済封鎖が行われていました。武田信玄が三方ケ原の戦いなど西に軍をすすめますが、信長の経済封鎖でこのままではジリ貧になると起こした行動ではという説もあります。

■長篠の戦いは銅山の取り合い
武田信玄と家康で奥三河の争奪戦が行われましたが理由の一つが銅山です。長篠城ちかくの睦平鉛山の銅で作られた弾が長篠古戦場から出ています。長篠がある奥三河には睦平鉛山があり、徳川側の弾の原料である鉛に使われていました。長篠の戦は、この鉱山の取り合いでもありました。経済戦争の側面があったんですね。

■しかみ像
信長は本願寺攻めのために兵力を温存したいため馬防柵を構築し陣城を築きます。また柵から出て戦うなという指令を出しますが、当事者の家康側は馬防柵の外へ出て戦いました。有名な家康の「しかみ像」がありますが、三方ヶ原の負け戦を忘れないために書かせたと言われていますが書かせたのは尾張藩祖の徳川義直のようで長篠の戦の時のようです。徳川美術館が出した図録の解説で三方ヶ原の戦いと記載したため広まったようです。

長篠城

長篠城

西三河での研修が無事に終わったので一日休みをとり豊田から岡崎経由で豊橋へ。豊橋駅から飯田線に乗り換えます。乗ってから気づきましたが飯田線では豊川以降ではICカードが使えません(泣)。

2両編成の列車がどんどん山の中に入っていくに連れて乗客はほとんど降り、乗っているのは5人ほど。長篠城駅で降りましたが降りたのは一人だけです。目的は駅の近くにある長篠城です。ずっと訪れたかったのですが、なんせ大阪から遠いので、こういう機会でもないと行けません。

■長篠城
長篠城は武田信玄と徳川家康の境目の城になったことから武田側になったり徳川側になったり揺れ動いた城です。信玄亡きあと、武田勝頼が長篠城を攻撃し、徳川家康、織田信長連合軍と戦になりました。主郭はかなり大きく、堀切が見事に深いですね。豊川と宇連川が堀替わりになっており、すごい崖で武田軍は平地側から攻めざるをえない形になっています。鳥居強右衛門がいかに長篠城から脱出したかもわかります。

武田勝頼・本陣跡

武田勝頼・本陣跡

長篠城を攻撃中の武田勝頼に家康・信長連合軍が後詰に出てきた知らせが届きます。武田勝頼は迎撃のために設楽ヶ原に向かい途中の高台を本陣にしました。今は木々で見通せませんが、当時はよく戦場が見えた場所だったのでしょう。酒井忠次による鳶ケ巣山砦への奇襲が功をそうしたと伝えられていますが、奇襲攻撃より3時間も前から武田軍の攻撃がはじまっていたようです。武田軍は奇襲攻撃に気づいていた公算が高いのですが家康には勝てると計算したのでしょう。

武田勝頼は信玄の四男で信玄が滅ぼした諏訪氏を継いだため諏訪四郎勝頼と呼ばれていました。ところが長男の武田義信が廃嫡となり、次男は盲目で出家し、三男は早くに亡くなっているため四男の勝頼が武田家を継ぐことになります。もともと武田家の跡取りではない点が本人にとっても負い目だったのでしょう。信玄が落とすことができなかった高天神城を落とすなど実績を出しました。勝頼は諏訪家の跡取りだったはずが、思いがけず信玄の後釜となり、苦労しながらも版図を拡げた優秀な武将で、信長も高く評価していました。

■信長はしぶしぶ長篠へ
信長が本願寺に味方する河内を攻めるために出陣したのにあわせ本願寺を支援するため武田勝頼が三河に進軍します。岡崎奉行だった大岡弥四郎が武田勝頼に内通しており岡崎に向けて出陣しますが途中で謀反が発覚し、岡崎攻めを中止にします。方向転換した後、野田城、吉田城を攻めて、ついでに長篠城を攻めますが、思いのほか抵抗されます。

高天神城の戦いで家康から援軍を求められた信長は結局、間に合いませんでした。家康は援軍が来ないと武田に寝返って尾張を攻めると使者に言って信長を促した話が残っています。同盟関係が瓦解するところまで追い込まれた信長はしぶしぶ出陣します。信長は兵を失う可能性を減らすために陣地を築いて馬防柵をたて負けぬ戦をします。

挙母城

挙母城

朝、ホテルを出て挙母城跡へ。公園になっていて散歩している人が多かったですね。挙母城は童子山という高台にあります。ここからは三河、尾張、美濃、信濃、伊賀、伊勢、近江の7つの国が見えることから、七州城とも呼ばれていました。もっとも三河、尾張、美濃は見られますが他はどうですかねえ。

挙母城が作られたのは江戸時代になってからで石垣しか往時のものは残っていませんが、1978年(昭和53年)には隅櫓が復元されています。寺部城跡に建てられた寺部陣屋の書院「又日亭」が移築されています。

本丸跡には豊田市美術館と豊田市博物館が建てられています。豊田市博物館は今年の4月にオープンしたばかりで、木が印象的な建物です。「旅するジョウモンさん ―5千年前の落とし物―」をやっていたので研修が終わってから見に行きました。

寺部城

寺部城

豊田にホテルをとっていたので岡崎から豊田に出たついでに夕暮れの寺部城跡へ。

永禄元年(1558)2月、若き家康が初陣を飾った城です。寺部城の城主は今川側でしたが離反して織田信長につきます。今川義元は元服したばかりの家康に寺部城攻撃を命じ家康は三河勢が支えます。家康は周到な戦いをしたようで、譜代の家臣団は「苦しいなかでお育ちになり、軍略は如何かと朝夕、案じていたが、めでたい」と涙を流して喜んだとあります。ただ大久保彦左衛門が書いた三河物語に出てくる話なんで話半分でしょう。ただ今川義元は初陣を評価し恩賞と腰刀を贈っています。

矢作川沿いに築かれた寺部城は土塁などが残り、藪の中には堀切などがありました。家康が天下をとると寺部城に槍の名手だった渡辺守綱が城主として入ります。大河ドラマ「どうする家康」ではジャイアンの声で有名な木村昴が演じていました。以後、渡辺氏が明治時代まで治めます。

岡崎城 持仏堂郭

持仏堂郭

上之郷城、深溝城と廻ったので、ついでに岡崎城へ寄ってきました。さすがに観光客が多いですね。

もともは三河守護代の西郷氏が砦を作り、やがて進出してきた松平一族が岡崎城として拡張整備します。家康はこの城で生まれますが青年期は今川の駿府で過ごしました。家康が関東に移されると田中吉政がさらに整備し、城下町を取り込んだ総構えとします。

小牧・長久手の合戦で連携していた織田信雄が秀吉と単独講和してしまったため、家康は秀吉と対峙することになってしまいました。この時に秀吉の侵攻に備えて三河の城を改修しましたが、岡崎城も改修されました。ところが天正地震(1586年)が発生し、大きな被害をうけた秀吉は戦争どころではなく家康と興和します。

■天守裏側の丸馬出し
天守から廊下橋でつながっている郭があり、ここに持仏堂があったので持仏堂郭と呼ばれる郭がありました。これが武田流の丸馬出しになっていて家康は武田からいろいろと学んで取り入れていました。天守に近づけば、馬出しから即座に反撃する攻撃的な拠点です。それはいいのですが、持仏堂郭なんか撮影している観光客は誰もいませんでした。

深溝城

深溝城

蒲郡駅から2駅行くと三ヶ根駅があり、普通しか止まりません。なんでこんな普通しか止まらない駅で降りたかというと、ここが家忠日記の中心地で深溝城がありました。ということで碑跡を見てきました。

■深溝城の築城
鎌倉時代末から南北朝時代にかけて深溝を支配していたのが三河大庭氏です。御家人だった大庭氏と関係があるかははっきりしません。この三河大庭氏が築城したのが深溝城で近くを東海道の脇街道である平坂街道が通っていました。中世になると松平氏が進出し大庭氏と戦になり、勝利し深溝松平家が誕生します。

■家忠日記
角川文庫から「家康家臣の戦と日常」(盛本昌弘)という本が出ていて、松平家忠が17年間にわたって残した日記があります。城の普請に駆り出されたり、連歌作りで交流したりして、京都へ行った時に里村招巴と対面しています。上之郷の鵜殿氏はこの頃は家康家臣となっており家忠の母は鵜殿氏になります。親戚なので家康が立ち寄ったりもしています。武田勝頼を倒した信長は三河を通って帰陣することになります。家忠はそのための普請などを行っていますが信長の行列を見たようで信長が黒人の弥介を連れているのを目撃しています。松平家忠は関ケ原の合戦の前哨戦となった伏見城の戦いで討ち死にします。

■板倉勝重
江戸時代になると板倉勝重の次男の知行地となりますが、もともと深溝松平家の所領の一つ小美村で生まれたのが板倉勝重。板倉家は深溝松平家の家臣でした。板倉勝重は出家していましたが家督を継いだ弟が戦死したため、家康の直臣となり京都所司代などを歴任します。

上之郷城

上之郷城

西三河で研修の仕事だったので、ついでに上之郷城へ。あくまでも仕事です。上之郷城はよく整備され、城跡からは三河湾が見渡せました。

上之郷城は鵜殿氏の城で鵜殿という名前から分かる通り、本貫は三重と和歌山の県境にある鵜殿です。やがて蒲郡一帯をおさめるようになり、鵜殿長照が上之郷城・城主でしたが今川義元の妹の子で義元の甥にあたり親戚でした。桶狭間の戦いの時は大高城を守っていましたが信長が鷲津砦、丸根砦を築き、大高城を封鎖したため、兵糧をいれたのが家康です。今川義元が討たれた後、家康は独立しますが、鵜殿長照は今川川に留まります。

■甲賀忍者が上之郷城をおとす
永禄5年(1562年)、家康は上ノ郷城を攻めますが、なかなか落ちません。そこで甲賀衆が城内に火を放ち、その混乱の中から攻め入り、鵜殿長照は討死にし、長照の子が捕らえられます。大河ドラマ「どうする家康」にも服部半蔵らが活躍するシーンが描かれていました。

城主・鵜殿長照を討ち取ったのは甲賀衆・伴与七郎という記録が残っています。

家康は駿府にいた正室の瀬名姫と嫡男の竹千代、長女の亀姫らとの人質交渉を行い、今川氏真にとって、親族であった鵜殿兄弟を見捨てられず交渉は成立し双方の人質が交換されます。