カテゴリー: 愛知県の山城
信長が清洲城から小牧城に移った理由
生きている間に日の目を見ない修理記録
名古屋城 本丸御殿
名古屋城がやられたら八事で迎え撃つ
御器所西城(尾陽神社)
長久手古戦場
午前中に仕事が終わったので、以前から気になっていた長久手古戦場に出かけてきました。歴史で学んだ小牧・長久手の合戦の舞台です。
地下鉄東山線の終点「藤が丘駅」から愛知万博で有名になったリニモに乗り長久手古戦場駅へ。3つ目の駅が長久手古戦場駅。それにしてもすごい駅名をつけましたね。分かりやすくっていいんですが。
駅のすぐ近くに古戦場公園があります。ここが池田恒興や森長可が戦死した場所で、塚が残っています。公園内には郷土資料館があって小牧・長久手の戦いの展示があるのですが、展示を見ると戦は広範囲に行われていました。藤が丘駅からリニモ沿線が全部、戦場だったんですね。
長く陣がのびた秀吉軍は家康軍から攻撃を受け、各個撃破されてしまいました。第3隊の堀秀政だけは、いち早く丘の上に陣地を家康軍を蹴散らし、これが唯一の勝ち戦になりました。
桶狭間と同じで、当時のものは何も残っていませんが、歩くと実に起伏の多い土地だと分かります。少し高い丘などは、両軍どちらかの陣地で御旗山という家康が陣を置いた山に登ると長久手が一望できました。それにしても古戦場なので香桶や血の池公園などと物騒な地名も残っています。
都会のど真ん中に残る末森城
お釈迦さんの舎利が奉納されている日泰寺のすぐ近くに小高い山があり、山上にあるのが城山八幡宮。ここには前から行きたかった末森城跡があります。
織田信長のお父さん、織田信秀が築城した末森城。三河の松平や駿河の今川に備えた城で、織田信秀は古渡城から移ってきました。古渡城は現在の東別院にあります。やがて織田信秀はこの末森城で亡くなりました。
城山八幡宮がある場所が本丸で、周りには空堀が掘られていましたが、これが見事に残っています。空堀の底まで降りて撮影した写真ですが、単なる道にしか見えませんね(笑)。けっこう深い堀になっているところもあり本丸をぐるっと囲んでいます。それにしても都会の真ん中によく戦国時代の遺構が残りましたね。
信秀が死んで、末森城の新しい城主になったのが信長の弟である信行。母の土田御前がウツケと呼ばれる信長よりも品行方正な信行を溺愛していたこともあり、家臣が二手に分かれて家督争いに発展。やがて稲生が原の戦いが起き、信長は信行派だった柴田勝家らと戦い勝利をおさめます。桶狭間の戦いが起きる4年前のことです。
前田利家の生誕地(荒子城)
午後から「あおなみ線」沿いの企業さんに専門家派遣で行く用事がありましたので、午前中に前から気になっていた荒子へ行ってきました。
前田利家が生まれた荒子城。城といっても戦国時代ですので堀で囲まれた館のようなもの。現在、城跡はなにも残っておらず、天満天神宮になっています。この天満天神宮は荒子城の中にありました。今は住宅街に囲まれた中にポツンと残っています。
すぐ近くにある近鉄・伏屋駅に前田という地名があり、こちらに前田城がありました。この前田城で前田利家が生まれたという説もありますが、中心になったのは荒子城でした。信長の清須城からもそれほど離れておらず、そばを流れている川沿いに清須まで移動することもできました。当時、海岸線がずっと内陸部でしたので、荒子城は海を守る南の拠点にもなっていたのでしょう。
前田利家は信長の命で越前(石川県)に移り、城を守っていた前田利長も越前に移ることtなり荒子城は廃城になりました。尾張荒子から前田利家に従って移住した人が住んだことから金沢に尾張町ができています。
清洲城
新大阪から新幹線に乗って名古屋駅の手前に見えるのが清洲城。
いつも気になっていたので名古屋へ行ったついでに寄ってきました。信長が10年間、居城にした城で、ここから桶狭間の戦いに出陣しました。信長が
本能寺の変で倒れたあとに行われた、織田家の跡目について話し合う清洲会議もここで行われ、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀などが出席していました。
清洲城は織田信雄が継ぎ、天守などを整備しましたが場所は現在の城の対岸側で、当時の石垣の一部が残っていますが、遺構は残っていません。現在の
清洲城は復元され博物館になっていて、発掘された金箔の瓦などが展示されています。名古屋城の櫓の一つに清須櫓があり、これは清洲城にあった天守を移した
ものと言われています。
この清洲城から桶狭間までは距離にして24km。時速6kmで行くと4時間の距離になります。ここで敦盛を舞って出陣する信長は時代劇の定番ですねえ。