川曲の坂下(一心寺 陣城)

一心寺 陣城

峯城近くに「天武天皇 河曲頓宮跡」があり、行ってきました。古城と同様に八島川に面する高台にあり現在は一心寺があります。

壬申の乱で大海人皇子が吉野から桑名へ向かう途中、川曲の坂下(かわわのさかもと)で日が暮れてしまい、おまけに雨が降出してきたので休む間もなく、三重の郡家に至って家一軒を焼いて暖をとったという記事が日本書紀に出てきます。場所についてはいろいろな説がありましたが、伊勢の国府政庁跡が近くで見つかり、このあたりを公道が通っていたことが確実で、ほぼ間違いないと言われています。

一心寺ですが、寺なのになぜか土塁が残っていて、どうみても城ですね。奥の方の竹藪は郭跡のようでした。峯城攻めの時に陣城として使われていたようです。

古城

古城

峯城を築城する前の峯氏の居城だったのか古城という名前になっています。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いの前哨戦として柴田勝家と連携していた滝川一益の亀山城、峯城を秀吉が自ら軍勢を率いて取り囲みます。峯城の周りに陣城を造り持久戦となりました。この古城もその時に改造されたようで峯城に向けた新たに横堀などが掘られています。

峯城から八島川を越えて東側にある高台の上に古城はあります。近くを道が通っていて案内板があり、古城に入れる虎口が近くにあります。藪だらけですが、そこは躊躇なく突入しましょう。虎口から郭に入るので周りを取り巻く土塁にあがると藪をさけて八島川の方まで進めます。3つほどの郭から構成された城で、峯城がよく見えます。

落山城

落山城

峯城の西、安楽川に向かって南東へ伸びた丘陵に落山城があります。

亀山梱包センター西の農道奥に城趾の標柱があり、ここから崖を直登します。あとで確認すると西にずっと行くと山上まで続く農道があったそうです。苦労して登ったのに!

直登すると尾根に出ますので、ひたすら登っていくと土塁で囲まれた2つの郭があります。別の尾根に一段下がった郭もありましたので4つほどの郭で構成されているようです。削平地が広いので大量の部隊が滞在できるので、峯城の出城説もありますが1584年(天正12年)に峯城を攻撃するための羽柴秀吉の陣城の可能性が高そうです。ただ秀吉側とすると技巧的な造りになっていない点が疑問です。南側の遺構が消滅しているので、こちらにあったかもしれません。

峯城

峯城

亀山にある峯城です。

正平年間(1346年 – 1370年)に峯政実(関盛政の五男)が築城しましたと伝わっていますが室町時代後期の築城のようです。天正2年に峯氏が伊勢長嶋城の戦いで討死にしたため織田信孝の家臣。岡本良勝が城主となりました。

何度も戦の舞台になります。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いの前哨戦で秀吉に敵対していた滝川一益の家臣によって攻められ峯城は亀山城ともども落城します。そこで秀吉が大軍を率いて峯城を包囲し、数ヶ月の籠城の末に開城します。

また天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いの前哨戦として秀吉は織田信雄側だった峯城を攻め、わずか数日で落城します。天正18年(1590年)に亀山城が中心となり廃城になりました。

とっても大きな城郭で6つの頂上にそれぞれ城があり、これが有機的に結びついています。各城を巡るだけでも大変です。きわめつけは天守台があったと伝わる高い土塁で、広いですね。安土城の天守台ほどの大きさがあります。

采女城

采女城

四日市でお仕事でしたが時間があったので四日市あすなろう鉄道に乗って内部駅へ。ちょっと歩いて久しぶりに采女城へ登ってきました。標高は低く、きれいに登山道が整備されていてスーツでも登れます。おすすめはしませんが。

1260(文応元)年に後藤基秀が武功により三重郡采女郷の地頭職となり采女の地に移住し、城を築いたと伝わっています。また承久の乱で上皇側について敗れた後藤基清が築いた説もあります。後藤氏は南北朝から室町にかけては北畠氏に仕えたようです。

采女城は足見川と内部川の合流地点の北岸にある丘陵尾根にあります。南北に延びる尾根に一の郭,二の郭,三の郭を置き、西に四の郭,九の郭、南西に五の郭,六の郭,七の郭、南に八の郭が連郭式に配されています。永禄年間(1558~70年)、織田信長が伊勢侵攻がはじまり、滝川一益に攻められ、落城しました。

浜田城

近鉄四日市駅の北西にあるのが浜田城。跡地は鵜森神社と公園になっていますが神社の周りに土塁と堀跡が残っています。都会の中によく城跡が残りました。浜田城は文明2年(1470年)に田原氏(赤堀氏)によって築かれましたが信長の伊勢侵攻で滝川一益に攻められ落城、廃城になりました。

時が流れて小牧・長久手合戦が起き、伊勢も戦場になりました。松ヶ島城(松阪)を服部半蔵ら甲賀衆とともに守っていた滝川勝利は羽柴秀長(2026年大河ドラマの主人公)に攻められて開城します。滝川勝利はもともと一志にいた木造氏で滝川一益に気に入られて娘婿になります。

松ヶ島城を出た後、織田信雄の命で浜田城に入り、廃城になっていた浜田城を改修します。秀吉側は浜田城の周りに羽津城など付城をつくります。どうも滝川勝利は秀吉と連絡をとっていたようで動きを封じるだけで、織田信雄が秀吉と和睦を結ぶまで守り切った形になりました。

滝野氏古城

滝野氏古城

柏原城から尾根伝いに移動できる丘陵上にあるのが滝野氏古城です。古城というので柏原城を造るまでの詰城だったようです。溜池の土手を登っていくと帯郭のようなものがあり、滝野氏のものと伝わる墓地があります。この墓地を登ると主郭に入ることができます。主格はU字型に高さ4mほどの土塁で囲まれており、唯一、土塁がない所は崖になっているので防御性はバッチリです。土塁と崖の間に少し隙間があり、ここが虎口でした。

第二次天正伊賀の乱の時に伊賀衆が使っていたかどうかは分かりませんが、戦いの最後には柏原城を織田側は仕寄りで攻めているので付城として使っていたのかもしれません。織田軍は4万とも5万ともいわれる兵で伊賀を6ケ所から攻めたため伊賀の惣国はこれで壊滅します。1年たたない間に本能寺の変が起きます。

柏原城

柏原城

柏原城 天正伊賀の乱 最後の激戦の舞台

織田信長が最初の頃に行っていたのがM&Aによる乗っ取り工作。伊勢国司の北畠家には息子の織田信雄をいれ支配下にします。当時の伊賀や甲賀は惣国と呼ばれる自治組織で盟主はおらず、皆で話し合って運営していました。堺の会合衆のようなものです。織田信雄が伊勢の隣の伊賀にちょっかいをだして散々な目にあいます。これが第一次天正伊賀の乱で信雄は信長から親子の縁を切るとまで言われます。

信長は伊賀の掃討を考え、四方から軍勢を攻め込ませます。これが第二次天正伊賀の乱で伊賀勢はゲリラ戦などで対抗しましたが大軍にはかなわず伊賀の南西隅へと追い詰められます。最後は柏原城に集結し、激戦になります。久しぶりに柏原城を訪れましたが、よく整備され、高い土塁で囲んだ郭がよく見えるようになっています。

城山城(見張台)

城山城(見張台)

城山城から尾根沿いに下っていくと見張台というところがあります。見張台の先は崖になっていて、現在は木々が多く何も見えません(笑)。ここから見張っていたのは初瀬街道から竜口に入る道になります。

城山城は百地三太夫(百地丹波)の城跡と言われていますので、忍者の城ですね。忍者といっても猿飛佐助などのような活躍はなく、島原の乱で一揆軍が籠っている城に忍者を忍ばせようとしましたが土地の方言が分からない、キリシタンが使う用語もわからないとあって全然ダメでした。他でも忍者を使ってみましたが、全然役立たず細川家では全員クビにしています。

■忍者の互助組織があった!?
細川家の分析では、どうも忍者互助組織みたいなものがあり敵味方双方に入っている忍者が情報交換して忍び込んだ証拠の武具を交換したりしていたようです。ところが島原の乱では相手側にそんな忍者はいませんので実力がばれてしまったというのが真相のようです。

城山城

城山城

竜口にある城山城です。竜口(龍口)という地名は室生にある龍穴神社への入口からついたようです。

竜口城は東側のピークに造られており、竜口城から尾根を進んでいくと西側のピークに城山城があります。城山城は竜口城に比べると少し小ぶりの郭で土塁に囲まれています。竜口城とともに運用した一城別郭だったのでしょう。こちらも百地三太夫の城と伝わっています。百地三太夫は石川五右衛門や霧隠才蔵に忍術を教えたという伝説があり、架空の人物ともいわれています。ただ百地氏は存在ししたので、その一族の城でしょう。

城山城は伊賀と大和の境にあり、天正伊賀の乱では初瀬口より織田軍の浅野長政が攻めましたので最前線の城になります。伊賀衆は赤目口にある柏原城に集結して織田信長軍と戦ったので竜口城と城山城は放棄したのでしょう。柏原城の戦いでは伊賀衆を率いていた百地丹波という人物の名前が残っています。大河ドラマ「どうする家康」では、神君伊賀越で嶋田久作が老人の百地丹波を演じていました。